罰と笑い、エンターテイメント

 

昔、松本人志が映画レビューの連載でアメリカのコメディ、「僕たちこんな馬鹿なことにチャレンジしてみました」的なドキュメンタリー作品について、「日本だったら何でもいいからまず「勝負」をして、敗者が罰ゲームとしてこういう「馬鹿なこと」に嫌々挑むって体裁にしなきゃエンタメとして成立しない」みたいなこと言ってて、あーなるほどって思ったけど、今はもう隔世の感ありっつーか、youtuberとかが「自発的」に○○してみた、みたいなことやってその動画を普通にみんな面白がって観てるわけだから、日本人の笑いの価値観も変わった、グローバルスタンダードに追いついたんだな、みたいな、今さらながら思ったっつーか。

 

ってかその松本、ダウンタウンの代表作、「笑ってはいけない」だって最初の頃は罰ゲームとして、浜田と松本どっちか負けた方が嫌々やらされる、って流れだったのがいつからか普通に浜田松本山崎ココリコ全員参戦! みたくなってて、そういう意味じゃyoutuberとかの前にダウンタウンが、テレビのコンテンツ自体がそういうふうに変わってた、時代の流れを先に捉えてた、ってことでもあって、やっぱタレントとかテレビマンってすげぇんだな、みたいな。そういうアレで言うなら、youtuberとかSNSのヒーローはやっぱ別に、既存メディア、コンテンツの「オルタナティヴ」じゃねぇんだな、みたいな。

 

要は前置きがうぜぇってことなのかもな。罰として嫌々やらされてる、みたいな「演技」が邪魔くさい、いいから早くヤレや、みたいな。修辞を削ぎ落としてシンプルにいこうぜ、みたいな。ヘミングウェイの文体的な。その意味じゃ潔い世界っちゃ世界だよな。あるいは「自主性」、本人の「主体性」を良しとする、尊重してる、みたいなことなのか。誰にやらされたわけでもない、俺が俺の意思でやってんだ、みたいな。俺が切り開いてんだ、みたいな。前置きなんざ省いてガンガン行こうぜ、飛ばしていくぜ、みたいな。人文書界隈でも「加速」どうこうってフレーズ、ちょっと前に流行ったりしてたな、そういや。