ラノベとポルノ

 

昔からラノベが好きだった。可愛い女の娘が出てきて萌えるってのと、「可愛い娘に萌えてる俺」ってモノを描けるって理由で。美少女を描くのと同時にそれを眺める「俺」、「俺」のキモさもそこに表せる、要はそれがイイ、ラノベってのはそれをヤレるジャンル、形式だわ、みたいな。

 

昔からエロ漫画も好きだった。「ヌケる」ってのと「ヌイてる俺」ってモノを描ける、今まさに「ヌイてる俺」が、その感情が、ザマがそこに表現されてるって理由で。エロ漫画ってのはそういうことがヤレるスタイル、形式だわ、みたいな。

 

そんで、だけど、エロ漫画はその意味で、どっかで限界があるジャンルだってふうにも思ってる。要はエロ、ポルノってモノは、なんつーかこう、いくらでもトガれるってトコに物足りなさみたいなもんもずっと感じてる。エロスとタナトスの野合だったりその他ワケわからんアブノーマルな性癖だったり、その気になればどこまでもイケる、みたいな感じが、前衛チキンレース的な匂いがポルノって表現形式にはあって、要は限界がないってトコにエロ漫画の限界がある、みたいな。結局それは「性はすごい」=「多様な性の在り方があり得る人間ってスゴイ、多様性バンザイ」みたいな道徳に絡め取られるんじゃねぇの、みたいな。イキ過ぎた結果死ぬほどお行儀良しの答えに回収されちまった、ポルノ表現ってモノはそういうふうにしかならねぇんじゃねぇか、みたいなことを、なんとなく昔からぼーっと考えたりしてる。

 

そんで、その意味で、なんとなくラノベには「可能性」があるって気がする。ラノベってモノのちんけさ、エロ漫画みたいにトガれない陳腐な子供だましのスタイル、ってトコに。ポルノと違って突っ走れない、どこにも行けないまま同じトコをぐるぐるしてる、ラノベのそういうトコに「使い道」があるぜ、みたいな。それは要は、エロ漫画はヌケるけどラノベはヌケない、萌えるけどそれを「放出」するトコまでイケない、欲情が身体で、アタマのナカでくすぶり続けてる、その半端さみたいなトコにラノベの「倫理」っつーか、まぁ、可能性があるって気がする。要は賢者タイムにイケないままの「俺」を描ける、射精ってゴールテープを切れない「俺」を、最高にキモいそいつをそこに描き切れるんじゃねぇか、みたいな。

 

要はエロ漫画ってのは基本「劇的」過ぎなんじゃねぇの、みたいな。そもそも俺らはヤレねぇよ、この世界の誰ひとり、幼女を、少女を、そのフィクションを犯すなんてできねぇよ、みたいな。エロ漫画の劇的さってのはそういう俺らのヤレなさ、虚構への手の届かなさってのを隠蔽しちまうんじゃねぇのか、みたいな。ヌイて、それでヤッた気になる、フィクションと現実が「つながった」って錯覚しちまうんじゃねぇか、って。

 

ラノベの「所詮ラノベ」さ加減にはその罠を回避できる可能性があるような気がする。ヤレない俺ら、どこにもイケない、勃起したままの宙吊りの俺ら、みたいなモノを描ける、そういうことをヤレるって気がしてる。ちんけな形式。ミステリ風にしようがミリタリー要素ぶち込もうが頑張って裏かいて「ラノベっぽくない」ふうに書こうが、何をどうやろうと所詮ラノベラノベで、そんでそこがラノベの良さだろ、みたいな。紋切型、金太郎飴、オリジナルのない二番煎じ。要はラノベは、ラノベってモノは凡庸だってことをちゃんと自分で言える、認められるジャンルだ、みたいな。個々の作者だなんだってモノの意思とは無関係に。陳腐な自己を表す陳腐な形式。

 

そんで、ラノベは寝首を掻けるって気がしてる。陳腐でちんけなのは俺だけじゃねぇぞってふうに。絵だろうが音だろうが粘土細工だろうが、どんな踊りもどんな言葉も、どんな形式だろうと、っつーかどんなモノだろうと、「この世界にはすごいモノなんてない」ってふうに、この世のなにもかもが目くそ鼻くそなんだってふうに、そういうことを言える、いつかまとめてこの世に分からせてやれるモノだってふうに思ってる。「所詮ラノベ」、「ラノベとは違う、陳腐じゃない私たち」みたいに見くびってた、高みの見物してたあらゆる表現、そいつらの首を切り落としてやれるんじゃねぇかって。可能性的には。まぁそんな日は来ないだろうけど、そういう夢を見れるだけラノベってジャンル、っつーか「概念」はましな気がしてる。「私たちの中には素晴らしい作り手が、素晴らしい表現があります」って思ってるラノベ以外の一切合切のジャンルより。今の、現実の、個々の作品とは別に、ラノベってその「概念」は、その夢だけはどうにか続いてくれりゃいいと思う。