文体の倫理

 

ハメットの『マルタの鷹』読んだ。つまんねーっつーか、「女々しさ」全開の小説だった。これが「心理のうだうだって説明を排して客観描写で構成されたクールな文体」、いわゆるハートボイルドもののバイブルだってのが全然分からん。単にこの小説がダメなのか、あるいはこれを聖典にしてるハードボイルドってジャンル自体がまとめてうんこなのか、でもこの小説がうんこ過ぎて他の「ハートボイルド」読んで確かめる気になんねぇな…。そんぐらいこれはひどい。くそだよくそ。

 

一番象徴的にひどいのはラストの場面で、主人公が犯人の女に命乞いされる(ってか警察に突き出さないでって泣きつかれる)んだけど、そこで主人公は「俺がキミを許さない理由」的なもんを①、②、③、みたいな感じでぐだぐだ列挙して女を「論破」して「勝利」しちゃってて、要するに自分の行動を長々と言葉にして説明、正当化してて、いやいや、これのどこに「簡潔さ」があるってんだ? 結局言葉がないとお前は女一匹おまわりに引き渡すこともできねぇのか? しかもその言葉、説明が地の文じゃなくて「台詞」で為されてるってのが死ぬほどゲンナリする。要するに言葉を音にして相手、目の前の女にも聞かせてる、要は自分のアタマのナカだけのモノローグで自分さえ納得すりゃイイとかじゃなくて、目の前の女(敵)にも自分のお理屈、お哲学、行動のロジックってのを分かってもらいたがってる。この浅ましさっつーか承認欲求。いいから黙れ、みたいな。要はこの小説、ごちゃごちゃうるせぇよ。べらべらと。

 

つまりこの小説は、普通なら地の文でやる説明、「描写」ってのを台詞のナカでやってるってだけのモノだ。だから地の文自体は多少コンパクトになってるけどその分キャラどもの台詞はぶくふく膨れ上がってだらだら冗長で自分の「お気持ち」とか声に出して説明、表明しちゃっててマジ勘弁、みたいな。結局文章全体、本1冊としては全然簡潔じゃない、むしろ不自然な説明台詞が多くなってて余計メタボ、みたいな。え、なに、ハードボイルドって要は地の文を台詞に流し込むってことっすか、みたいな。地の文さえ少なきゃハートボイルドかよ、じゃあもう戯曲だの漫才の台本だの見てりゃ良くね、みたいな。

 

ってかなんつーか、地の文の役目を台詞に押し付けるのは「倫理」としてどうなんだって気もする。台詞として、台詞って枠のナカで書かれてんだからこれは「リズム」イイでしょ? みたいなのが鼻につく。これに限らずそういうのは結構他の小説とかでもある。思う。台詞にさえしときゃ軽妙、上等、みたいな。それはなんつーか、作者の責任を登場人物、キャラに押し付けてんじゃねぇのか、みたいな。「説明」っていう作業、嫌われ仕事をキャラの方に転嫁してる、しかもキャラがそれやると「説明」が「説明」っぽくなくなる、一石二鳥! みたいな。けど読者としては全然、キャラが台詞として「説明」やっても「説明」は「説明」のままだし、なおかつ作者のその責任逃れのキモさが加算されて、&作者がそのキモさに気付いてないってことでさらにイラっときてもうそんな感じで二兎を追う者一兎も得ず的な惨状でマジ死ねよ、みたいな。

 

いまいちうまく言えてないわ。けど、「台詞だからクール」「台詞だからリアル感ある」「台詞だから切実さが出てる」みたいなまやかし、お手軽な「テクニック」、驕りってのは、いろんなフィクションのそこかしこにあったりして、それはまぁ、倫理的に良くない気がする、っつーか個人的に気に入らねぇ。舐めてんじゃねぇぞみたいな。もうなんつーか、キャラに逃げねぇで腹くくってお前がヤレよ、どうせ喋りたいんだろ? お前、どうせ唖でなんかいられねぇんだから、みたいな。