義経とイスカンダル

 

ボルヘスの講演集読み返してる。その中でロバート・グレイヴスって作家の作り話を紹介してる。

 アレクサンダーは33歳のときにバビロニアで死ななかった。彼は軍勢から離れると砂漠や密林をさまよったあげく、明かりを見つけます。それは焚き火でした。

 その焚き火を、肌が黄色く目の釣り上がった戦士が囲んでいる。彼らはアレクサンダーを誰だか知らずに受け入れます。彼は根っからの兵士だったので、自分のまったく知らない土地での戦いに参加します。兵士である、ということは、闘う理由は重要視せず、またいつでも死ぬ覚悟ができている。歳月が流れ、彼は多くのことを忘れてしまいます。そしてある日、兵士たちに給料が支払われるのですが、もらった中に一枚気になる硬貨が混じっていた。彼はそれを手のひらに取ると、こう言いました。「お前も耄碌したものだ。これはお前がマケドニアのアレクサンダーだったときに、アルベラでの勝利を記念して作らせたメダルじゃないか。」そのとたん彼は自分の過去を思い出すのですが、結局またタタール人だか中国人だかの傭兵になるのです。

これ読むと速攻「義経=チンギスハン」説思い出して、そんで「義経=チンギスハン」って発想の図々しさがすげぇ際立ちまくる。あとあれだ、ついでに『Fate』のアレクサンダーとかと比べても全然このグレイブスのアレクサンダーの方がカッコいい。『Fate』のあれは「王」ってだけだけど、グレイブスのこれは、このアレクサンダーは無名兵士、一兵卒って生き方の方が本人的にしっくりきてて、でもまぁ昔は「王」って役目もガラじゃねぇけどぼちぼちこなしてました的な感じで、要は「帝王学」とかごちゃごちゃ言わなさそうでイイな、みたいな。交換可能性の権化たる「貨幣」ってモノで、唯一無二の替えの利かない偉人だった昔の自分を思い出す今の自分、ひと山幾らの交換可能な現在の自分。