おでかけ子ザメ

 

つい最近知った『おでかけ子ザメ』って漫画、かわいすぎる。主人公の子ザメちゃんが町の人間とか動物どもと共存してて、普通に日々を過ごしてて、死ぬほど優しい世界で、そんで、だけど読んでるとマジでガリガリ胸が苦しい。泣きたくなる。別に誰かとお別れする、的な描写とかは一切ないけど、絵柄がこう、どうにも切なさ的なモノを演出しようとしてて、おいやめろや、みたいな。帯文とかも「こんな日が、ずっと続きますように」とか不穏な文章でマジ勘弁、みたいな。

 

「現実はこうじゃない」って理由で泣きたくなるフィクションは山ほどある。要は典型的には萌えアニメラノベとかで、つまり「こんなカワイイ(都合のイイ)娘はこの現実には存在しない」って意味でしんどくなって、っつーかまぁ広義の恋愛もの、ジュブナイルってのも全部そうで、要するに「俺にはこんな青春なかった」「俺にはこんな人生送れなかった」的な、現実とフィクションの落差で死にたくなるって感じで、それはそれでもちろんキツいんだけど、でもなんつーか、それはまぁしょうがねぇっつーか、要はなんでそういう「この現実と違う虚構」を俺ら消費者が摂るかっつったら、「この現実にはいないカワイイ娘」、「この現実には存在しない物語」をまさに欲しがってるからで、いやなんつーか、だからそういうコンテンツを食ったあとで「でもこれ、現実にはあり得ねぇんだよな」って死にたくなるのは不可避なわけで、ってかトートロジーってだけで、だからある種それはもう、端っからこっちも死にたくなるのは分かってて、そんで分かってても摂らざるを得ないわけで、いや要するに、だからまぁ、どうしようもねぇよ、みたいな。死にたくなる覚悟はできてる、ってか覚悟キマッてるってことにしかならない、みたいな。「この現実と違う虚構」の前じゃ。

 

そんで、だけどこの『おでかけ子ザメ』はそういう「この現実と違う虚構」じゃなくて、むしろもっと厄介な、なんつーか、「このフィクションは本当はこういうフィクションじゃない」って感じのモノだ。要するに俺らのこの現実は関係なくて、けど、『おでかけ子ザメ』って作品は、「この世界(=この虚構)は、本当はこれがあるべきカタチじゃない」ってことを常に匂わせようとしてて、それがそれこそ鼻につく。

 

具体的にはあれだ、主役の子ザメちゃんは人間と同じように普通に町で暮らしてて、けどちょいちょい海に憧れる描写があって、そんでそのたびに人間の友だちとかが海の絵だのプールだのって「代用品」を子ザメちゃんにご提供して、で、とりあえずそういう「代用品」で子ザメちゃんは満足してんだけど、でも、海のない町で海に憧れてるってこと自体がもう、子ザメちゃんは「ここに本来いるべきでない存在」ってことをモロに表現してて、つまりこれは紛いモノの世界なんだ、いやそれは俺らの「この現実」との対比で紛いモノとかってことじゃなく、この現実は一切無関係に、そもそも虚構の中においてこれは虚構、紛いモノ、嘘の世界なんだってことが伝わってきて、それがマジで悲しくてしんどい。要するに子ザメちゃんの存在が否定されてる。「子ザメちゃんが現実にいない」ことがつらいんじゃなくて、「子ザメちゃんは虚構としてさえ存在しない」ってことがつらい。『リコリス・リコイル』ってフィクションに千束は確実にいるけど、『おでかけ子ザメ』って世界に子ザメちゃんは本当はいない、これは本当はこうじゃない、ってことを常に突き付けられてるって感じでつらい、『おでかけ子ザメ』って漫画を読むのは。

 

この漫画の「オチ」は分かり切ってる。「最終回」は決まってる。子ザメちゃんが町を出る、親しいヒト、その他諸々町のあれこれ、すべてとお別れして旅立つ、本来サメとしての自分がいるべき場所、「海」に帰るぜ、みたいな。――いや、そうはならないってのも分かってる。つまり実際には作者はそんな最終回を描かない、ってか多分「最終回」なんてもん自体描かないだろう、子ザメちゃんはいつまでも町でみんなと仲良くやるってのは分かり切ってる。でも、明示的にはそうでも、そんな終わりを描かなくても、なんつーか、そういう「着地」を匂わせてる時点でダメだろ、つまり上で言ったように「子ザメちゃんが海に憧れてる」って設定自体がもう良くねぇよそれ、みたいな。「実際は描かないけど物語としてのシメは一応用意してます」的な感じがもう嫌だ。そういう「含み」を読者に想像させて、想像させたうえで、それをテコにしてこの「優しい世界」の得難さ、尊さを味わわせるって「手法」が気に入らねぇ。その他諸々、子ザメちゃんの家族的なもんが一切出てこないこと、子ザメちゃんが人間と一緒に学校に通えない=人間とは一線を画されてること、とかも含めて、そういう「この夢物語に開いた穴」がちょこちょこ作中に配置されてること、「これは夢物語」だ、本当はこうじゃないってことを読者に示したうえで、ってか示すことで、本当じゃないこのユートピア、夢物語を際立たせようとしてるって算段、それはお前、死ぬほど浅ましくねぇか? みたいな。いや要するに、言いたいのは子ザメちゃんどこにも行かないでくれ、と。子ザメちゃんがいなくなるなんてコト、俺ら読者に想像すらさせないでくれと。要するにこんな切なさ漂わす風景のタッチ、絵柄もやめてくれと。子ザメちゃんも普通に学校通っていいだろと。こんなセンチメンタルの匂わせで作品に「深み」を、そんなくだらない「深み」なんてもんを付与すんのはやめてくれ、もっと明るくいこうぜ、頼むから。作者はこのフィクションをこのフィクションとして直球で肯定してくれ、「本当はこうじゃない」的な対比を、そんな「真実」をちらつかせるなんて下衆な真似、んなお作法、んな「倫理」、捨てちまえよ。ドブに。海に。

 

ぶっちゃけ慣れの差もある。最初に言った「この現実とは違う虚構」より『おでかけ子ザメ』的な「本当はこうじゃない虚構」がつらいってのは。前者はまぁ、それこそ俺みたいなキモオタ、萌え系のモノが好きなヤツは多分生きてて1日もそれを思わない日ってのはなくて、要するに「綾波はこの現実にいない」「アスカはこの現実にいない」ってのは、そのしんどさ、感傷ってのは、まぁ、慢性だから、どうにか付き合い方、やり過ごし方ってのも分かってるけど、いや『おでかけ子ザメ』はしんどいな。数としてこういう「本当はこうじゃない虚構」的な作品って少ないから、経験として数をこなせないから、たまにこうやって襲われると致命傷になる。この感情、どう処理したら、みたいな。「こんなカワイイ娘はこの現実にいない」って感情への対処、慰め方ってのは、まぁ一例は二次創作を読む/書く、とかだけど、でも『おでかけ子ザメ』はなんぼ二次創作とかやったってこの気持ちはどうにもならんよな。ってことは慣れの差って問題でもないのか? 対処法がまだ作られてないとか? ってかあるのか? よく分かんねぇな、なに言ってるか。

 


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『おでかけ子ザメ』、つい最近YouTubeでアニメ化した(ってかこれでこの作品知った)。まだ2話しかやってないけど、アニメは原作の漫画よりイイ感じがする。つまり漫画みたく「切なさ」を演出しようって感が薄くて、なんかおじゃる丸チックな、Eテレ的なのっぺり感? があって、要するに、なんつーか、永遠に終わらなさそう。「お別れ」ってのを通奏低音として流してなくて、どこまでも行けるぜ、行こうぜ、このまま、的な雰囲気出してて、なんかあれだ、ちゃんと子ザメちゃん、あり得てるぜ、在りて在るぜ、みたいな。頼むからこのまま行ってくれ、人気爆発してディズニー化、ポケモン化して原作の、作者のちんけな作為、「切なさ」なんか吹き飛ばして永遠のコンテンツになってくれ。とりあえず俺は関連グッズを買いまくります。