ジャンルにおける謙虚さ

 

久々に『アイシールド21』読んでて、作中の「100年にひとりの天才」みたいな表現とか見て、「いや日本でそんなすげぇ人材アメフトにいかねぇだろ」みたいな、まぁ誰でもそう思うよなってベタなツッコミがアタマによぎって、そのよぎり自体が懐かしいっつーかなんつーか、あー俺は今アイシールド読んでるぜ感がすごいぜ、と。

 

ってか基本ほとんどのエンタメ作品なんかそうで、要はそれが舞台にしてるジャンル、業界にはすごいヤツが、天才がいるって前提で話が作られてて、たまにふと、それに鼻白むっつーか、もうちょっと謙虚にいけよ、みたいな、「俺の属してるここには大したヤツはいない」ってことを、そのやるせなさ、「狭い世界でやってんだよな」みたいな諦観とかを描いたスポーツ作品、クリエイター作品みたいなのがあればな、とか思わなくもなかったりする。稲中卓球部とかってもしかしてそんな感じだったりすんのかな。

 

いや、ってかフィクションに限らず現実でも大概そうで、要は実業家は実業の世界に、学者は学問の世界に、芸人は芸能の世界に天才が集ってる、自分のいる、自分の好きなこのジャンルこそが「才能」の集まる場所なんだ、みたいに思いたがってて、そんで結局芸人とかテレビマンが「松本人志は天才」とか言ったりすんのも要は「そのコミュニティに属してる俺すごい」みたいなことだろ、自賛、自慢の変奏だろとか思ったりもして、なんつーかこう、なかなかままならんよな、みたいな。そういう現実を撃つ意味でも、「謙虚なフィクション」は結構この世界に必要なんじゃねぇか、俺らのアタマを洗ってくれるんじゃねぇかなって気がする。多分。