ニコラ・テスラ

 

荒俣宏の『パラノイア創造史』って本パラパラ読んでる。1985年に出た本(文庫化が1991年)なんだけど、ニコラ・テスラについて「この発明王エジソンの天敵については、しかし、現在ちまたに流れている申し訳程度の生涯略記からだけでは、驚くほどミステリアスだった彼の一生を窺い知ることなど不可能だろう」「今日、ニコラ・テスラに大きな関心を抱いている日本人は少ない」「ニコラ・テスラの生涯とその業績に関する多少ともまとまった伝奇は、つい最近まで、わずかに一冊が刊行されたにすぎなかった」とか書いてて、そうなのか、ってちょっと意外だった。え、テスラってもっと大昔から超有名で日本でもバシバシ紹介されててサブカルチャー的にもポップな使い勝手のいいアイコンだったんじゃねぇの、みたいな。いや、別にだからどうだってことでもないけど、なんつーか、テスラぐらいの「偉人」でも無条件で常に一線級の有名人ってわけじゃなくて、何かのきっかけとかで「再発見」されねぇと案外埋もれたままだったりするんだな、みたいな。荒俣宏は「オカルティズムや神秘主義への関心が高まった現代(1980年代)」だから、晩年そういうのに結構傾倒してた(そんでだからアカデミズム界隈だと評価が下がってた)テスラが改めて発掘されてきたんだろうって書いてるけど…。

 

 

時間と自我

 

「わたしたちは時間の初めも終わりも想像できません。もし最初の瞬間というものがあるなら、その前には何があるでしょう。(…)聖アウグスティヌスは解決を見出しました。「ある時点にではなく、時間とともに、神は地上を創造された」――創造の始まりは時間の始まりであったということです。しかしそれで何かが解決したのでしょうか。最初の瞬間より前のことを考えずにすむことが可能なのでしょうか。それでもその瞬間に先立つ瞬間が必要になりますし、その瞬間に先立つ瞬間も必要になり、それが無限に繰り返されます。」

 

「わたしは他の誰かであるほうがいいです。でも、もし本当に他の誰かであったなら、わたしはきっとその誰かであることを好まないでしょうね。不幸なことに誰になろうと、〈わたし〉であること、つまり〈わたし〉であると思うことには変わりありません。ところで〈わたし〉とは何でしょう――これはわたしたちにはわかりません。『ミリンダ王の問い』という仏教徒の教理問答を読んだことがあります。その第一条は、個我は存在しないということです。これが仏教徒の最初の信条なのです。のちにそれはヒュームやショーペンハウエルや、マセドニオ・フェルナンデスによって唱えられました。そしてわたしはわたしが存在しないと信じるに至ったのです。――これは矛盾でしょうね。なぜならこの結論に至ったのはわたしであって、隣人ではないのですから。」

 

 

サッカー

 

久々にサッカー見た。ワールドカップ、日本対コスタリカ。久々に見るとサッカーって難しいな。「ボールを持ってないヤツらの動きが重要」ってのは理屈としては分かるんだけど、分かっててもボールにしか目が行かねーから結果陣形も戦術もくそもなくて、単にボールがあちこち跳ねたり転がったりしてるようにしか見えねぇよ、みたいな。まぁボールがあちこち跳ね転がってるだけでも結構面白いってのもすごいけど。

 

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そんでオレンジレンジの『チャンピオーネ』思い出して久々に聴いてた。めちゃくちゃイイ。2006年のワールドカップのテーマソングだった曲で、何がイイってこれがアスリート、「闘う選手たち」を描写したモノじゃなくて「それを適当に見てるにわかファン」を歌った曲だってのが最高にイイ。要するにサッカーだのスポーツだの「日本代表」だのってもんは所詮その辺のにーちゃんねーちゃんが集まって酒飲んでバカ騒ぎするための口実程度の価値しかねぇんだよってことを示してる曲になってんのがめっちゃ好きだ(まぁ元々オレンジレンジ自体好きなんだけど)。要はアスリートだの「真剣勝負」だのってもんがなんぼのもんじゃい、みたいな。気楽にいこうぜと。っつーか要は「闘ってる」アスリートなんかより酔ってはしゃいでる街のあんちゃんの方が「格上」に決まってんだろ、みたいな。そういう感覚をズバッと切り取った曲だと思う。

 

なんつーかそれは、文学の世界のテクスト論、「作者の死」とかと同じ発想で、要は作者のテーマとか企みとか想い、作品に込めた「切実さ」なんてもんは完璧にゴミであって、作者なんてもんは路傍の犬のくそで、それを好き勝手に読んで屁理屈こじつける読者の方が偉いに決まってんだろ、みたいな。要は「作品」なんてのは、単にそこにごろっと犬のくそみたいに転がってるだけで、別にどう読まれようが知らねぇし、っつーか読まれなくてもいい、そもそもどうでもいいわ、みたいな。――って感じに、大昔、「作品」が「作者」から解放されたみたいに、少し昔、オレンジレンジはテーマソングってモノをアスリートから解放した、音楽を「闘っちゃってるヤツら」への奉仕から解き放ったぜ、めでたしめでたし、みたいな。まぁ3歩進んで2歩下がる的に、相変わらずアスリート様とかを崇め奉ってる「テーマソング」も山ほどあるけど。

 

 

最近やったゲーム

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『Firewatch』ってゲームをやった。おっさんが山火事監視員になって山の中をうろちょろするゲーム。

 

そんでケルアックの小説読み返した。上の短編集の「山上の孤独」って作品で、若い頃のケルアックが山火事監視員をやってたときのことを書いた私小説。個人的にケルアックの小説は昔からあんまピンと来てなかったけど、この「山上の孤独」はなんとなくぼんやり悪くねぇよなって感じで憶えてた。っつーか無意識でこの「山上の孤独」に引っ張られて『Firewatch』もやろうって思ったんだろうな。

 

あとはまぁ、ケルアックだとなんやかんやで『オン・ザ・ロード(路上)』もやっぱそれなりに憶えてるっちゃ憶えてる。旅小説、ってよりは個人的にはスクールカースト作品(学校じゃねぇけど)って感じだった。キャサディっていうスクールカースト最上位みたいなイケてるヤツが、何故かケルアックを気に入っててつるんでくれてる、みたいな感じの話で、ケルアックも一応カースト上位のグループの一員ではあるけどその中じゃそこまで目立ったヤツでもない、でもボス猿のキャサディが目をかけてるから他のヤツらもケルアックを邪険にできねぇ、みたいな空気感があって、旅云々よりその関係性を描いてるってふうにしか読めない小説だった。

 

そんで作品の終盤、キャサディとケルアックはイイ感じの麻薬を探しにメキシコだかどっかに行って、けどそこでケルアックが現地の病気にかかってダウンして、キャサディが「悪いけど俺、先帰るよ」みたいな感じでちょっとバツが悪そうにしながらもケルアックを見捨てて行っちまって、でもケルアックもちょっと「おいおい」的な感じでイラっとしつつも「でもまぁそうだよな、そりゃ行くよな、あぁ、行けよ」的な感じで、なんつーか互いの「格」の差を考えたらそういう選択になるよな、俺なんかほっといて行くのが「筋」だよな、みたいにどっかで納得してて、それは、その納得の仕方、腑への落とし方はなんつーか独特のリアル感あるわっつーか、スクールカースト(学校じゃねぇけど)ってこういうことだよな、みたいな、そういうのをバシッと描いてるってのはなんか割と感動するっつーか、ケルアックすげぇ、みたいな。学園ものとかママ友どうしのマウンティングがどうこうみたいな日本の作品で、ケルアックのこれより人間関係の非対称性、非対等性を「リアル」に描けてるやつってあんまねぇよなって気がする。

 

 

パーミション

 

「なんだかあんた、前よりちょっとだけ、よくなった気がするよ」

 俺がわたした3万円入りの茶封筒を、とても大切そうにナイロン製の手さげ袋にしまいながら、おふくろはいいました。

「そうなの?」

「ほんのちょっとだけどね」

 俺が期待しすぎると困るとでもおもったのかおふくろは、

「ちょっとだけ、キモくなくなったかもしれないよ」

「そっか。それならよかった」

 しばらくしてから俺はいいました。

「もしかして、彼女とかできたりするかな?」

「いまさら?」

「ああまぁ、そうだよね。いまさらだよね」

「あんたに彼女さんができたら、あたしもうれしいよ」

 おふくろがそういうのを聞いて俺は、そうか、やっぱりうれしいものなんだな、とおもいました。だったら俺も、うれしいとおもうのかもしれないな、と。

「けどね、あたしの3万がどうなっちゃうか、それだけは心配だよ」

 そういって、おふくろは、アパートをでて、色あせた赤い軽自動車にのり込みました。

――『パーミション』(岡崎祥久

 

焚書

 

「(…)一例として、640年にアレキサンドリアを制圧した第二代カリフ・オマールの言葉を引く。彼は同市の図書館に残された多数の文献を、ほぼ6ヶ月にわたって風呂の焚きつけ代わりに燃やし続けた。このときカリフが吐いた言葉は次のようだった。

「図書館にある書物は、コーランと一致する内容のものか、さもなくば一致しないもののどちらかである。前者の場合なら、コーラン一冊があれば事足りる。後者の場合は偽りを記した有害な書物である。したがってどちらの場合も燃やしてしまうのが適当である」」

――『パラノイア創造史』(荒俣宏

 

 

ラノベとポルノ

 

昔からラノベが好きだった。可愛い女の娘が出てきて萌えるってのと、「可愛い娘に萌えてる俺」ってモノを描けるって理由で。美少女を描くのと同時にそれを眺める「俺」、「俺」のキモさもそこに表せる、要はそれがイイ、ラノベってのはそれをヤレるジャンル、形式だわ、みたいな。

 

昔からエロ漫画も好きだった。「ヌケる」ってのと「ヌイてる俺」ってモノを描ける、今まさに「ヌイてる俺」が、その感情が、ザマがそこに表現されてるって理由で。エロ漫画ってのはそういうことがヤレるスタイル、形式だわ、みたいな。

 

そんで、だけど、エロ漫画はその意味で、どっかで限界があるジャンルだってふうにも思ってる。要はエロ、ポルノってモノは、なんつーかこう、いくらでもトガれるってトコに物足りなさみたいなもんもずっと感じてる。エロスとタナトスの野合だったりその他ワケわからんアブノーマルな性癖だったり、その気になればどこまでもイケる、みたいな感じが、前衛チキンレース的な匂いがポルノって表現形式にはあって、要は限界がないってトコにエロ漫画の限界がある、みたいな。結局それは「性はすごい」=「多様な性の在り方があり得る人間ってスゴイ、多様性バンザイ」みたいな道徳に絡め取られるんじゃねぇの、みたいな。イキ過ぎた結果死ぬほどお行儀良しの答えに回収されちまった、ポルノ表現ってモノはそういうふうにしかならねぇんじゃねぇか、みたいなことを、なんとなく昔からぼーっと考えたりしてる。

 

そんで、その意味で、なんとなくラノベには「可能性」があるって気がする。ラノベってモノのちんけさ、エロ漫画みたいにトガれない陳腐な子供だましのスタイル、ってトコに。ポルノと違って突っ走れない、どこにも行けないまま同じトコをぐるぐるしてる、ラノベのそういうトコに「使い道」があるぜ、みたいな。それは要は、エロ漫画はヌケるけどラノベはヌケない、萌えるけどそれを「放出」するトコまでイケない、欲情が身体で、アタマのナカでくすぶり続けてる、その半端さみたいなトコにラノベの「倫理」っつーか、まぁ、可能性があるって気がする。要は賢者タイムにイケないままの「俺」を描ける、射精ってゴールテープを切れない「俺」を、最高にキモいそいつをそこに描き切れるんじゃねぇか、みたいな。

 

要はエロ漫画ってのは基本「劇的」過ぎなんじゃねぇの、みたいな。そもそも俺らはヤレねぇよ、この世界の誰ひとり、幼女を、少女を、そのフィクションを犯すなんてできねぇよ、みたいな。エロ漫画の劇的さってのはそういう俺らのヤレなさ、虚構への手の届かなさってのを隠蔽しちまうんじゃねぇのか、みたいな。ヌイて、それでヤッた気になる、フィクションと現実が「つながった」って錯覚しちまうんじゃねぇか、って。

 

ラノベの「所詮ラノベ」さ加減にはその罠を回避できる可能性があるような気がする。ヤレない俺ら、どこにもイケない、勃起したままの宙吊りの俺ら、みたいなモノを描ける、そういうことをヤレるって気がしてる。ちんけな形式。ミステリ風にしようがミリタリー要素ぶち込もうが頑張って裏かいて「ラノベっぽくない」ふうに書こうが、何をどうやろうと所詮ラノベラノベで、そんでそこがラノベの良さだろ、みたいな。紋切型、金太郎飴、オリジナルのない二番煎じ。要はラノベは、ラノベってモノは凡庸だってことをちゃんと自分で言える、認められるジャンルだ、みたいな。個々の作者だなんだってモノの意思とは無関係に。陳腐な自己を表す陳腐な形式。

 

そんで、ラノベは寝首を掻けるって気がしてる。陳腐でちんけなのは俺だけじゃねぇぞってふうに。絵だろうが音だろうが粘土細工だろうが、どんな踊りもどんな言葉も、どんな形式だろうと、っつーかどんなモノだろうと、「この世界にはすごいモノなんてない」ってふうに、この世のなにもかもが目くそ鼻くそなんだってふうに、そういうことを言える、いつかまとめてこの世に分からせてやれるモノだってふうに思ってる。「所詮ラノベ」、「ラノベとは違う、陳腐じゃない私たち」みたいに見くびってた、高みの見物してたあらゆる表現、そいつらの首を切り落としてやれるんじゃねぇかって。可能性的には。まぁそんな日は来ないだろうけど、そういう夢を見れるだけラノベってジャンル、っつーか「概念」はましな気がしてる。「私たちの中には素晴らしい作り手が、素晴らしい表現があります」って思ってるラノベ以外の一切合切のジャンルより。今の、現実の、個々の作品とは別に、ラノベってその「概念」は、その夢だけはどうにか続いてくれりゃいいと思う。