敵を誉める

 

ボルヘスのエッセイ集読んでる。2、3回はこれ読んでると思ったけど全然憶えてねぇな。ほんと最近なんにも憶えてねぇな。

 

「歴史の謙虚さ」ってエッセイがイイ感じだった。要はノルウェーの大昔の王様とかをダシにして、「敵を褒める」ってのがちんけなナショナリズムを超えるカギだ! 的な話で、あー、みたいな。

 

わたしは敵に対する顕彰の言葉をもうひとつ思い出す。それはロレンス『知恵の七柱』の終わりに近い一章にある。著者はあるドイツ軍部隊の勇敢を賞し、「この大戦で同胞を殺戮した者どもを、そのとき初めて誇らしく思った」と書いたあと、こうつけ加える――「彼らは素晴らしかった(They were glorious)」。

 

要は高校野球で相手チームのファインプレーに拍手するヤツ、みたいな。――青森にはねぶた祭りってのがあって、そこで一等賞のねぶたに、昔は「坂上田村麻呂賞」ってのを贈ってて、でも「坂上田村麻呂って中央からの征服者じゃねぇか、東北の敵だろ」的な話になって賞の名前変えられた、らしいんだけど、ボルヘス的な発想ならむしろ残しとくべきだったな、みたいな。「敵」のgloriousを称えるために。敗者の度量っつーか、いや、被害者側の、なんだろうな、「文学的感性」とか「センスオブワンダ―」とか、まぁ言い回しはなんでもいいけど、ともかくその手の、別に誰でも持ってるその「場違い」な感想ってもんをどこまで正論から守ってられるか、塗り潰さずに残しとけるか、みたいな。

 

 

なか卯

 

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さみぃな。暑いと思ってたら急に寒いわ。上の動画で太田が「1年のうちで空調点けてないってときがない」的なこと言ってて、マジでそうだよな。暑いか寒いかどっちかしかねぇぞと。ピクシブで「秋:かつて日本に存在したとされる季節」みたいなこと書いてる漫画あって、みんな思ってることは同じですな。春と秋どこ行った。

 

青森より東京の方が夏暑くて、そんで冬の寒さはなんぼかイージー、のはずだけど、なんでか寒い時の方が東京を連想する、思い出す。今日はなか卯を思い出してた。大学の頃中野に住んでて駅前のなか卯によく行ってた。夜中に行って牛丼食ってた。広くて客もいなくてイイ感じだった。暑いと外出る気力すらないけど寒い分にはまぁ、ダサいダウンジャケット羽織ってだらだら歩いてちんたら食いに行けるわ、みたいな。うまかったな。

 

牛丼太郎」って店もあったな。他の店より100円ぐらい安かった。あれはあれで良かったな。途中で潰れちゃったけど。あーあと大学の近くの「チカラめし」って店、あの焼き牛丼もうまかった。なんかコメがぼそぼそしてて、でもそれが脂っこい牛肉に合ってた。あーちくしょう。

 

 

バッセン

 

仕事帰り、10年ぶりぐらいにバッティングセンター行った。100球で指の皮むけた。痛い。女子中学生、だか女子高生もいて、制服でバシバシ打って飛ばしてた。カッコ良かったな。

 

変化球のマシンもあった。カーブとシュート。カーブはまぁ、あーカーブって感じだったけどシュートはこれほんとにシュートか? パワプロと違う! みたいな。右に曲がってなくてむしろ下にグイッと落ちてて縦スラってやつじゃね? みたいな。全然バット当たんねぇ。いや動体視力なさすぎて横に曲がってることすら分かってない、見えてねぇのかな。難しいわ。

 

中学のとき野球部のヤツとキャッチボールして、スライダーかなんか投げられてちょっと感動したな。おおマジで曲がってる、ボールって曲がるんだ、みたいな。

 

最新のピッチングマシンってどういうもんなんだろうな。いやつまり、「ヒトの投げられないようなボール」とかって投げれるのかな。スピードはまぁいくらでもって感じだろうけど、ヒトじゃ無理な軌道、見たことのない変化、なんかそういうのがあって、そういうのを追求したバッセンとかあればな、みたいな。現実の「模倣」じゃないマシン、人間の「模倣」じゃない野球、みたいな。

 

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今思い出した。これイイよな。なんつーか「野球サマ」に従属してない感じがあってイイ。現実をおちょくってる、出し抜いてる、みたいな。

 

 

懐メロ?

 

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the engyの新曲イイな。ここしばらくなんつーか古井由吉みたくなっててあんまバシッときてなかったけど、今回のはおおキャッチーだ、俺でも聞ける、みたいな。っつーかちょっと懐メロ感、高校の頃に聴いてたちんけな歌謡曲をカッコよくするとこうなる、的な感じあって、ノスタルジーもくすぐってくれてお得、みたいな。

 

 

シーラッハ

 

久々にシーラッハ読んでた。なんつーか、まるまる1冊読むとやっぱ胃もたれっつーか、こう、鬱陶しいな。1短編、20ページぐらい読む分にはクールでシンプルでしかもオチとかもバシッと決まってておおすげぇ、カッコイイ! みたいな感じで最高なんだけど、1冊読み切ると逆にそういう最高さ加減が鼻につくっつーか、もういいよお前、押しつけがましいよ何もかも、みたいなテンションになってあー、みたいな。要は「さり気なさ」の押し売り、みたいな。

 

15秒のCMに出てるとめっちゃカッコいいのに映画とかだと死ぬほど大根役者、みたいな俳優いるけど、それと同じ感覚だな。なかなか、ままならんもんですな。

 

 

ヴァリス

 

疲れた。残業続いて疲れてる。いや疲れてるっつーか感傷的になってる。いや疲れてるから感傷的になってんのか。

 

ディックの『ヴァリス』、10年ぶりに読み返した。10年越しで読み通した。帰りの電車でちまちま読んでた。感傷的な話、ってか書き方だった。こんな小説だったっけ。泣きそうだ。

 

「おれの死んだネコは……」そこで口を止め、それから声を張り上げた。「おれの死んだネコはバカだったとさ」

 

「宇宙にはとても厳しい規則があるんだとさ。だからあんな種類のネコ、走っている車の前に頭から駆け込むような種類は、長生きできないんだと」

 

「でもおれは言ったんだよ。『なぜ神様はおれのネコを賢くしてくれなかったんだ』って」

 

「おれのネコがバカだったのは、神様がバカに作ったからだろう。だからそれは神様の落ち度であって、おれのネコの落ち度じゃない」

 

「あの子は救済者じゃない。おれたちみんな、お前と同じくらい狂ってるぞ、フィル。連中は北で狂ってる。おれたちはここで狂ってる」

 

「お前、ホースラヴァ―・ファットだと思い込んでいたときのほうが好感が持てたよ。あいつは好きだったね。お前ときたら、おれのネコ並のバカだ。バカは死ぬってんなら、なんでお前が死んでないんだよ?」

 

「酒場にすわって飲む。そうすりゃ世界が救われるのも間違いないな。だいたい、そもそもなんで救わにゃならんのだよ」

 

 しばらく前からぼくはシマウマ――1974年3月に目の前に顕現した存在をぼくはそう呼んでいる――は実は、線形の時間軸に沿ったぼく自身の自己を融合させた総体なのではないか、という見解を持っていた。シマウマ――またはヴァリス――はその人間の超時間的な表現なのであり、神様じゃない……

 どうでもいいや、とぼくは疲れて思った。もう諦めた。

 

 ぼくは死について考えるようになった。

 実は、それを考えたのはぼくではなかった。ホースラヴァー・ファットだった。

 

 ぼくは「お前、何がしたいんだ」と言った。本気だった。

「彼女を見つけること」とファット。

「だれを?」

「知らんよ。死んだ子。二度と会えない子」とファット。

 そのカテゴリーに入る子はたくさんいるぞ、とぼくはつぶやいた。悪いがファット、お前の答えは曖昧すぎる。

 

「『シマウマ』なんて、いねーんだよ。お前自身なんだよ。自分自身も見分けがつかないか? お前だ、お前しかいないんだ。ケヴィンのネコみたいだ。お前、バカなんだよ。最初から最後までそれに尽きるんだ。わかったか?」

「オレから希望を奪うのか」

「何も奪ってない。もともと何もなかったんだからな」

「このすべてがそうなのか? そう思うのか? 本当に?」

 

「ケヴィンは正しいよ。すべてはあの死んだネコにある。大審問官はケヴィンに答えられない。『おれのネコはなぜ死んだんですか?』答え『見当もつかんよ』。答えなんかない。道を渡ろうとした死んだ動物がいるだけ。ぼくらみんな、道を渡りたい動物で、でも途中でまったく気がつかなかった何かがぼくたちをなぎ倒す。ケヴィンに訊いてこいよ。『お前のネコはバカだった』。だれがネコを作った? なぜネコをバカに作った? ネコは殺されて学んだのか、そしてそうなら何を学んだ? シェリーは癌で死んだことで何か学んだのか? グロリアは何か――」

「わかったよ、もう十分」とファット。

 

「ケヴィンの言う通り。でかけて女とヤッてこい」とぼく。

「どの女と? みんな死んだ」

 

 ぼくは立ち上がり、ファットのところへ行って、手であいつの胸を押しやった。「少女は死んだ、グロリアは死んだ。それを蘇らせるものは何もない」

「時々夢に見るんだが――」

「それをお前の墓碑銘にしてやるよ」

 

「最も見つかりそうにない場所を探せよ」とケヴィンはあるときファットに告げた。どうすればそんなことができる? これは矛盾だ。

 

 ぼくは居間でテレビの前にすわった。すわった。待った。見た。まんじりともしなかった。ぼくたちが、もともと、はるかな昔、そうするように言われたように。

 

 

おでかけ子ザメ

 

つい最近知った『おでかけ子ザメ』って漫画、かわいすぎる。主人公の子ザメちゃんが町の人間とか動物どもと共存してて、普通に日々を過ごしてて、死ぬほど優しい世界で、そんで、だけど読んでるとマジでガリガリ胸が苦しい。泣きたくなる。別に誰かとお別れする、的な描写とかは一切ないけど、絵柄がこう、どうにも切なさ的なモノを演出しようとしてて、おいやめろや、みたいな。帯文とかも「こんな日が、ずっと続きますように」とか不穏な文章でマジ勘弁、みたいな。

 

「現実はこうじゃない」って理由で泣きたくなるフィクションは山ほどある。要は典型的には萌えアニメラノベとかで、つまり「こんなカワイイ(都合のイイ)娘はこの現実には存在しない」って意味でしんどくなって、っつーかまぁ広義の恋愛もの、ジュブナイルってのも全部そうで、要するに「俺にはこんな青春なかった」「俺にはこんな人生送れなかった」的な、現実とフィクションの落差で死にたくなるって感じで、それはそれでもちろんキツいんだけど、でもなんつーか、それはまぁしょうがねぇっつーか、要はなんでそういう「この現実と違う虚構」を俺ら消費者が摂るかっつったら、「この現実にはいないカワイイ娘」、「この現実には存在しない物語」をまさに欲しがってるからで、いやなんつーか、だからそういうコンテンツを食ったあとで「でもこれ、現実にはあり得ねぇんだよな」って死にたくなるのは不可避なわけで、ってかトートロジーってだけで、だからある種それはもう、端っからこっちも死にたくなるのは分かってて、そんで分かってても摂らざるを得ないわけで、いや要するに、だからまぁ、どうしようもねぇよ、みたいな。死にたくなる覚悟はできてる、ってか覚悟キマッてるってことにしかならない、みたいな。「この現実と違う虚構」の前じゃ。

 

そんで、だけどこの『おでかけ子ザメ』はそういう「この現実と違う虚構」じゃなくて、むしろもっと厄介な、なんつーか、「このフィクションは本当はこういうフィクションじゃない」って感じのモノだ。要するに俺らのこの現実は関係なくて、けど、『おでかけ子ザメ』って作品は、「この世界(=この虚構)は、本当はこれがあるべきカタチじゃない」ってことを常に匂わせようとしてて、それがそれこそ鼻につく。

 

具体的にはあれだ、主役の子ザメちゃんは人間と同じように普通に町で暮らしてて、けどちょいちょい海に憧れる描写があって、そんでそのたびに人間の友だちとかが海の絵だのプールだのって「代用品」を子ザメちゃんにご提供して、で、とりあえずそういう「代用品」で子ザメちゃんは満足してんだけど、でも、海のない町で海に憧れてるってこと自体がもう、子ザメちゃんは「ここに本来いるべきでない存在」ってことをモロに表現してて、つまりこれは紛いモノの世界なんだ、いやそれは俺らの「この現実」との対比で紛いモノとかってことじゃなく、この現実は一切無関係に、そもそも虚構の中においてこれは虚構、紛いモノ、嘘の世界なんだってことが伝わってきて、それがマジで悲しくてしんどい。要するに子ザメちゃんの存在が否定されてる。「子ザメちゃんが現実にいない」ことがつらいんじゃなくて、「子ザメちゃんは虚構としてさえ存在しない」ってことがつらい。『リコリス・リコイル』ってフィクションに千束は確実にいるけど、『おでかけ子ザメ』って世界に子ザメちゃんは本当はいない、これは本当はこうじゃない、ってことを常に突き付けられてるって感じでつらい、『おでかけ子ザメ』って漫画を読むのは。

 

この漫画の「オチ」は分かり切ってる。「最終回」は決まってる。子ザメちゃんが町を出る、親しいヒト、その他諸々町のあれこれ、すべてとお別れして旅立つ、本来サメとしての自分がいるべき場所、「海」に帰るぜ、みたいな。――いや、そうはならないってのも分かってる。つまり実際には作者はそんな最終回を描かない、ってか多分「最終回」なんてもん自体描かないだろう、子ザメちゃんはいつまでも町でみんなと仲良くやるってのは分かり切ってる。でも、明示的にはそうでも、そんな終わりを描かなくても、なんつーか、そういう「着地」を匂わせてる時点でダメだろ、つまり上で言ったように「子ザメちゃんが海に憧れてる」って設定自体がもう良くねぇよそれ、みたいな。「実際は描かないけど物語としてのシメは一応用意してます」的な感じがもう嫌だ。そういう「含み」を読者に想像させて、想像させたうえで、それをテコにしてこの「優しい世界」の得難さ、尊さを味わわせるって「手法」が気に入らねぇ。その他諸々、子ザメちゃんの家族的なもんが一切出てこないこと、子ザメちゃんが人間と一緒に学校に通えない=人間とは一線を画されてること、とかも含めて、そういう「この夢物語に開いた穴」がちょこちょこ作中に配置されてること、「これは夢物語」だ、本当はこうじゃないってことを読者に示したうえで、ってか示すことで、本当じゃないこのユートピア、夢物語を際立たせようとしてるって算段、それはお前、死ぬほど浅ましくねぇか? みたいな。いや要するに、言いたいのは子ザメちゃんどこにも行かないでくれ、と。子ザメちゃんがいなくなるなんてコト、俺ら読者に想像すらさせないでくれと。要するにこんな切なさ漂わす風景のタッチ、絵柄もやめてくれと。子ザメちゃんも普通に学校通っていいだろと。こんなセンチメンタルの匂わせで作品に「深み」を、そんなくだらない「深み」なんてもんを付与すんのはやめてくれ、もっと明るくいこうぜ、頼むから。作者はこのフィクションをこのフィクションとして直球で肯定してくれ、「本当はこうじゃない」的な対比を、そんな「真実」をちらつかせるなんて下衆な真似、んなお作法、んな「倫理」、捨てちまえよ。ドブに。海に。

 

ぶっちゃけ慣れの差もある。最初に言った「この現実とは違う虚構」より『おでかけ子ザメ』的な「本当はこうじゃない虚構」がつらいってのは。前者はまぁ、それこそ俺みたいなキモオタ、萌え系のモノが好きなヤツは多分生きてて1日もそれを思わない日ってのはなくて、要するに「綾波はこの現実にいない」「アスカはこの現実にいない」ってのは、そのしんどさ、感傷ってのは、まぁ、慢性だから、どうにか付き合い方、やり過ごし方ってのも分かってるけど、いや『おでかけ子ザメ』はしんどいな。数としてこういう「本当はこうじゃない虚構」的な作品って少ないから、経験として数をこなせないから、たまにこうやって襲われると致命傷になる。この感情、どう処理したら、みたいな。「こんなカワイイ娘はこの現実にいない」って感情への対処、慰め方ってのは、まぁ一例は二次創作を読む/書く、とかだけど、でも『おでかけ子ザメ』はなんぼ二次創作とかやったってこの気持ちはどうにもならんよな。ってことは慣れの差って問題でもないのか? 対処法がまだ作られてないとか? ってかあるのか? よく分かんねぇな、なに言ってるか。

 


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『おでかけ子ザメ』、つい最近YouTubeでアニメ化した(ってかこれでこの作品知った)。まだ2話しかやってないけど、アニメは原作の漫画よりイイ感じがする。つまり漫画みたく「切なさ」を演出しようって感が薄くて、なんかおじゃる丸チックな、Eテレ的なのっぺり感? があって、要するに、なんつーか、永遠に終わらなさそう。「お別れ」ってのを通奏低音として流してなくて、どこまでも行けるぜ、行こうぜ、このまま、的な雰囲気出してて、なんかあれだ、ちゃんと子ザメちゃん、あり得てるぜ、在りて在るぜ、みたいな。頼むからこのまま行ってくれ、人気爆発してディズニー化、ポケモン化して原作の、作者のちんけな作為、「切なさ」なんか吹き飛ばして永遠のコンテンツになってくれ。とりあえず俺は関連グッズを買いまくります。