アメフト

 

何年か前、アメフトのライスボウルを見に行った。そのときはまだライスボウルが大学生VS社会人の試合だった。

 

見てて思ったのは、なんつーか試合展開が、そんでケガの仕方が生々しいってことだった。前半は大学生が社会人相手に喰らいついてんだけど、それが段々ワンサイドゲームになっていって、そんでもう終盤とかになると社会人チームのエースランナー、外国人助っ人のそいつが力ずくで中央からゴリゴリ突破していって誰も止められねぇ、みたいな。そんで1プレイごとにホイッスル鳴って大学生チームの選手がひとりずつ負傷退場、担架で運ばれてく、みたいな。それを見てるとこう、なんつーか、試合始まってすぐは体力ゲージ満タンだったのが徐々に削られていって最後ゼロになってノックダウン、みたいな、野球とかのアタマにデッドボール喰らって1回表で即退場みたいな「派手」な、唐突な感じじゃないのが逆に怖いっつーか、しんどいスポーツなんだなアメフト、みたいな。実力差がそのまま身の危険に直結、それもじわじわ地味に直結してんだな、と。「お、おう」みたいな、まぁイイもん見たっちゃ見たけど。

 

 

水曜どうでしょう

 

ここ1ヵ月、1日中水曜どうでしょうばっか観てるけどやっぱ面白いわ。というか何十回もループして、もう面白いとか思わなくなっても観れる、みたいな。見飽きてんのに普通に見てられる、じゃあもう最強のコンテンツだろそれ、みたいな。

 

雑誌のインタビューだかなんだかでディレクター陣が「どうでしょうは10年経っても20年経っても全然画ヅラが古くなってない」とか自画自賛してて、そんでその理由を「そもそも大泉洋の髪型とか服装が、その当時も流行ってないファッションだったから」みたく言ってて、なんかアフォリズムっぽいっつーか、気の利いた説明だな、みたいな。要するにいつ見ても「どうでしょう」大泉洋は時代から切り離されてて、時代を体現してなくて、どこの時間にも属さないまま「どうでしょう」のカメラの前でぼやいてる、みたいな。宙吊りの、抽象化された大泉洋

 

キリスト教徒にとって聖書が、「2000年前、3000年前にどこそこで誰の手で書かれた」みたいな時間とか空間の枠、「事実」をぶっ飛ばして読まれる、挑まれる絶対的な代物、ってのと似た感じで、俺らどうでしょうのファンは、その水曜どうでしょうを観てる、ぼーっと口を半開きにしてケツぼりぼり掻きながら1日中眺めてる、って気がする。水曜どうでしょうでさえあれば、画面に大泉洋さえいりゃいつどこに行っても何やってもいいよ、みたいな。別に内容とか関係ねぇわ、みたいな。

 

 

山際淳司

 

オリンピック、よく知らないマイナースポーツの映像観てると山際淳司思い出す。

 

山際淳司の文章は「江夏の21球」とか「スローカーブをもう一球」とか、ああいう野球みたいなメジャーなやつじゃなくて、他のもっとマイナーなスポーツを扱ったモノの方が個人的に面白い。ってかあのヒトの文体に合ってる。野球とかサッカーみたいには金にならないスポーツ、その分野では日本トップ、世界大会とか出るような選手なんだけど、じゃあそいつらの本業はっていうと田舎の中学の体育教師とか車のセールスマン、みたいな感じの、そういうちんけな「アスリート」を書いた文章は結構グッとくるっつーか、そいつらが試合中とかに「何やってんだ俺?」みたいな感じにふとむなしくなってる、でもだからって自分の日常やら何やらを変えようとするわけじゃない、みたいなしみったれた描写が。ある種アスリートってモノの凡庸さっつーか、金とか注目度みたいな殻を剥いた先の、スポーツってモノの陳腐さ、アスリートのどうにもならなさ、みたいな。

 

 

エバリスト・カリエゴ

 

ボルヘスの『エバリスト・カリエゴ』って本があって、ボルヘス自身のご近所さん、エバリスト・カリエゴについての伝記、って触れ込みの本なんだけど、実際読むとカリエゴについては大して書かれてなくて、なんだこれ、みたいな。でもなんとなく好きなんだよな。

 

中身もそんな面白いとは思わないけど、でもその堂々としたタイトル詐欺っつーか、とりあえず「伝記」ってカタチだけ決めて、そしたらあとはカタチを無視して自由に書くぜ、みたいな感じが好きで、要はテーマとかタイトルのその意味はどうでも良くて、ただテーマとかタイトルが「神輿」としてあることがむしろ自由にあれこれ書くことを促してくれるぜ、みたいな。うまく言えないけど、でもそういう感じがして、面白くないくせにイイ本だな、つまんねーって分かってんのに馬鹿みたく何度も読んじゃってるよ、的な。

 

 

表現

 

実家に引っ越した。

 

自分の部屋、の隣にうさぎの部屋、昔うさぎを飼ってた部屋があって、まだ幾つか、ケージとか、うさぎ関連のブツが残ってる。まぁ捨てるのめんどいからそのままになってるってだけだけど。

 

買ったばかりの頃のうさぎのことを母親はよく「撫でるところがない」って言ってた。要するにそんぐらい小さいって意味で、でもなんつーかイイ感じの言い回しだよな、とか思う。小動物、愛玩動物への欲望がさらっと表現されてるって感じで、うまいな、みたいな。そっから数カ月でそのうさぎはかなりでかくなってたけど。

 

 

体罰

 

体罰の話、ってか体罰って単語聞くと脊髄反射渡部直己のこと思い出す。ベテランの文芸評論家で、俺が大学生のとき教授やってたヒトで、よくそのヒトの講義を聞いてた。話がうまくてどの授業もおもしろかった。

 

そのヒトは「体罰としての朗読」ってことを言ってて、昔教えてた大学とか専門学校で、小説とか評論の実作、みたいな授業であんまりひどいモノを書いてきた学生には授業中にみんなの前でその文章を音読させてた、いかにくそみたいなモノを自分が書いたのか思い知れ! 的な意味でやらせてた、とか言ってて、確かにキツイなぁ、俺だったらもう二度とその授業出られねーなぁ、とか思って、いやなかなかのもんだなぁと。この大学に来てからは、自分も歳とって丸くなったからまだやらせたことないって言ってたけど。

 

渡部直己の文学理論、はかなり偏屈で、けど個人的にけっこう影響受けてて、普段本とか読んでてもソクラテスのデーモン的な感じでアタマのナカの渡部が「この本つまんねぇよ」「陳腐だよ」とかささやいてきて、うるせぇな! ちょっとあっち行ってろ! みたいなふうになって、けっこうめんどくせぇな、そんで絵に描いたようなひとり相撲だよな、みたいな。なにやってんだ。

 

 

ryuga

 

押入れの整理してたらryugaってイラストレーターの同人誌が出てきた。昔買ったやつで、ぱらぱら捲ってた。昔、1冊ラノベ出したときに挿絵を描いてくれたヒトだった。

 

編集者に「挿絵はこのヒトにする」って言われて、「このヒトは風景とかを描くのがすごいうまい」とか言ってて、ふーんとか思いつつ、でもそれってラノベの絵を描かせる基準になってんのか? って気もしなくもなかったりして、でもまぁ、そのときの編集者があの文章をどう売りたいかって考えが割とハッキリ出たセレクト、だったんだな、って気もする。さすがっつーか、やっぱ全然、俺なんかよりいろいろ考えてんだなぁ、と。まぁ本はまったく売れなかったけど。

 

風景風景言ってるとやっぱ柄谷行人思い出す。「風景の発見」、だっけか。それ思い出しながら、この同人誌ぱらぱら捲ってると、なんつーか、「あー」みたいな、それはそれで別の感傷っつーか、なんか変な気分になるな。分からんけど。