ホイットマン

 

ホイットマンの詩、昔から好きでちまちま読んでた。「アメリカすごい」みたいなことをすごい言う、みたいな作風で、その図々しさが嫌味とか鼻につくとか思わなくて、「スケールでけぇ」って感じで楽しく読める。自由とか平等とかって理念を宿して作った人工国家、その自分の国アメリカってモノにテンション上がってるのが、なんかカッコいいなこいつ、的な。

 

やっぱそれは、日本人が「日本すごい」とか言ってんのを見るのと印象が違ってて、要は本居宣長とかそのへんの国学者の文章とか読んでも「スケールでけぇ」「カッコいい」とはあんま思わなくて、でも、それは自分が日本人だからなのか、俺が宣長とかをあんまカッコいいとは思わないのと同じように、もしかしたらアメリカ人はホイットマンを大してカッコいいとは思ってなかったりすんのかな、とか思ったりもして、どうなんだろうな。どういう扱い、ポジションなんだろうな。

 

個人的にはホイットマンを陰気で説教くさくしたのがエリック・ホッファーって感じ。ホッファーの文は箴言風、(キリッ、みたいな雰囲気なだけ余計そう思う。ジメッとねちねち「アメリカすごい」って言ってるヤツ、みたいな。

 

 

聖書

 

最近聖書読んでる。読破しようと思ってちまちま読んでいってる。とりあえず新約の方から読み始めて、そっちはもうすぐ読み終える。まぁ旧約はもっと何倍も分量あるから、まだまだ先は長いんだけど…。

 

断片的に、その時々でつまみ食いみたく読んでるってのが面倒になって、もうなんつーか、ここらで済ませちまおうと思って一気に読破ってふうに乗り出した、ってのと、あと『神の伝記』って本を読んで、それもきっかけ、みたいな感じになってる。その本は聖書の神をある種無知な神、自分の全能っぷりをどう使えばいいか分からないヤツ、みたいなふうに描いてて、つまり聖書を「神サマの成長物語」みたいに捉えてて、それは割と、なんとなくイイなと思って、聖書に食指が動いた、的な。

 

あとあれだ、『聖書男』って本も良かった。「神と協力し、聖書の意味を進化させることができる」って文章はけっこう感動した。「聖書全体が、神とヒトとの関係を築くもの」云々。『神の伝記』と『聖書男』、この2冊を前提にして、組み合わせながら聖書読んだらそこそこ何か、おもしろく読めるんじゃねぇかな、なんか思いつくんじゃねぇかな、みたいな。そんな感じでちまちま読んでる。まぁどうせ途中で投げ出すんだろうとは思うけど。読み終えようと思って読み終えた本とか多分ほとんどないわ、人生で。

 

 

寒い

 

八王子寒い! ってか東京寒い。

 

自分は北国の生まれだから東京の寒さなんざ大したことないぜ、的な妙な自惚れがあって、そのせいで毎年毎年、なんなら毎日毎日東京の寒さに意表を突かれてる、してヤラれてる、みたいな、んな感じのアホな流れを繰り返してる。当たり前だけど、マイナス10℃の町で育ったからって0℃や10℃が寒くないってことにはならないし、唇が切れないとか手が荒れないってことにもならない。いつまで経っても学習しねぇな。どうなってんだこのアタマ。

 

1日10回ぐらい湯たんぽのお湯入れ替えてる。これないとマジで無理だろ。

 

 

 

中央大学

 

中央大学に行ってきた。コロナのワクチンを受けに行った。12年ぶりに行った。前は高校生のとき、オープンキャンパスで1回だけ行った。見学が終わって、キャンパスの中で1時間ぐらい道に迷ったのを憶えてる。小雨の降る中延々と歩いて軽くトラウマになった。

 

最近知ったけどなんか法学部が都心に移転するとか。部外者の感想としては「えー」みたいな。中央の法学、みたいなアタマのいいトコがあの辺鄙な山奥にあるってのがカッコいいのに。東京とは名ばかりのあのド田舎から弁護士とか検察とかって勝ち組がぞろぞろ供給されるってのがクールなのに。文京区に引っ越してそっから社会にエリート輩出って、おいマジメか、ベタだな、普通かよ、みたいな。もうちょっとこう、「やってやったぜ」感っつーか、一発逆転感が欲しいぜと。多摩の山奥から這い出てきた勝ち組ども、的なカタルシス、社会への揺さぶり、階級移動、みたいな夢を俺らに見せといて欲しいぜと。もったいねぇな。

 

 

うさぎ

 

25、6歳で、実家でニートだった頃、飼ってたうさぎが死んだ。母親が買って飼ってたわけじゃないけど、実質母親が99%そいつの世話をしてて、まぁ、どう見ても飼い主だった。ロップイヤーで、基本おとなしいヤツで、けど抱っこはこの世の終わりみたいに嫌がってた。

 

病気で段々弱ってきて、死ぬのとほぼ同じタイミングで母親が体調を崩した。めったに風邪とかひかないヒトだけど珍しく寝込んだ。個人的にはけっこうアツいっつーか、感動的っつーか、1番面倒見てた、かわいがってたヒトがペットの死にシンクロしてダウンするってのはこう、理に適ってると思った。そうだよな、そうこなくちゃな、みたいな。

 

焼き場に行って火葬した。そこそこデカいうさぎだったけど骨はちんまりしてちょびっとしかなかった。焼いてくれたじいさんが「うさぎって燃やすとけっこうおしっこの匂いがするもんですな」とか言ってて、なんかその感想は好きだった。そのじいさんの物腰は火葬場の職員にすげぇふさわしいと思った。おれも死んだらこのヒトに焼いてもらいたいと思った。リピーター、みたいな。

 

 

区別

 

最近浴びるほど映画を観てて、どれも面白くて、それはいいんだけど、改めて思ったのは登場人物の区別がつかないってことだ。っつーか単純にヒトの顔が見分けられないってことだ。

 

前からそうとは思ってたけど、けど思ってた以上に俺はその目暗加減がひどいわ。黒人の顔が見分けにくい、いや白人の顔も見分けにくい、ぐらいじゃ収まらなくて普通に日本人の顔も識別できてねぇって痛感したわ。自分でもビビったのは堺雅人佐々木蔵之介の見分けがつかなかったってことだ。『アフタースクール』って映画を観てて、そのふたりが出てんのを同一人物だと1時間ぐらいずっと思ってて、だから全然ストーリーが把握できない、「え、これヤク中の幻覚って設定?」とか本気でそう思ってて、マジで混乱してた。堺雅人佐々木蔵之介が別だ、別々の役だって気づいてもう謎が一気に解けました、みたいな。ひとりで勝手に超難解なミステリに仕立ててちゃってました、みたいな。というかついでに言えば佐々木蔵之介田辺誠一の区別もいまいちついてませんでした、みたいな。佐々木さんと田辺さんって俺けっこうファンなのに。

 

この国で生きてて堺雅人佐々木蔵之介の区別がつかねぇなら、じゃあ逆に何なら見分けられるんだよと。ボルヘスの小説思い出したわ。神は自分を信じるヤツと信じないヤツの区別がついてない、だから誰が天国に行って誰が地獄に行っても全然おかしくないぜ、とかなんとか。っつーか天国と地獄の区別もつかねぇかも、みたいな。死んでも。堺雅人佐々木蔵之介の区別もつかない馬鹿野郎には。

 

 

声優

 

ここんとこ1日何本も映画を観てる。在宅ワークの作業、の片手間で観てて、外国の映画は吹き替え版で観てる。それで思ったけどやっぱ声優って声イイな、やっぱ声優って好きだわ、みたいな。

 

高山みなみとか山寺宏一とか、俺みたいなアニオタからすればアニメでおなじみの声優がばんばん吹き替えやってて、っつーかむしろこっちが「本業」なんだって感じで、吹き替え版って今まであんま観てなかった(っつーか映画自体ほとんど観てこなかった)からこの歳になって割とガチで新たな発見、新鮮な驚きって感じで、いやまぁ、要するに高山みなみとか山寺宏一ってやっぱイイな、好きだわ、みたいな。

 

声優の演技ってイイ意味でくどいから、実際の俳優の演技の「侘び寂び」っつーか「風情」っつーか、そういうちんけな小賢しさを塗り潰してくれるのがイイな、イイ意味でイイな、みたいな。もう日本の映画とかドラマ、日本の俳優にも吹き替えやったらいいんじゃね?みたいな。なんつーかこう、もっと記号的な演技、もっとベタ塗りみたいな演技がいいんじゃねぇかな、みたいな。絵で言えば野獣派、みたいな。分かんねぇけど。