村野四郎の『体操詩集』、読んだ。
おまけでくっついてる「実在の岸辺」(分量はこっちの方が4倍ぐらいあるけど)って詩集はいまいち陳腐だなって感じだけど、「体操詩集」自体はかなり良かった。スポーツをテーマにした詩が20本ぐらい。それっぽい写真つきで。
飛込
僕は白い雲の中から歩いてくる
一枚の距離の端まで
大きく僕は反る
時間がそこへ皺よる
蹴る 僕は蹴った
すでに空の中だ
空が僕を抱きとめる
空にかかる筋肉
だが脱落する
追われてきてつき刺さる
僕は透明な触覚の中でもがく
頭の上の泡の外に
女たちの笑いや腰が見える
僕は赤い海岸傘の
巨い縞を掴もうとあせる
拳闘
大きい広袖の中から
高く組み合された両手のように
二つの肉体が
せり上げられ
忽ち
ベコニアのように血だらけになる
レフェリーは紋白蝶である
やがり一人がうなだれると
一人が孤独のように残される
嵐の中にふるえながら
すると急に
世界が扇のように閉ってくる
あれだ、山際淳司読むのと同じ感じ。要するにアスリートが試合にめっちゃ熱中して集中してるけど「内面」ではそういう外界の自分とか世界を冷めた目で観察してます、みたいな構図。あとアスリートを見てそこに哀愁っつーか虚しさっつーか無意味さっつーかそれ系の抒情を見出す、あてがうような描写、文体。いやそういうアングルの文章とか作品ってすげぇ好みで、だからこの「体操詩集」も山際淳司もイイんだけど、でもこれが「最適解」じゃねぇよなっつーか、これに浸ってちゃダメだよなって気もする。要はこういうのってあれだろ、犬だの猫の気持ちを勝手に「代弁」するテロップつけちゃうYouTubeのペット動画とかと同じだろ、みたいな。こんなふうにアスリートにシニカルな「内面」とかスカした感傷をべったり投影するってのは、なんつーかこう、結局「スポーツすごい、アスリートすごい」っていうちんけな崇拝のちょっとした変化球でしかないんじゃねぇかっつーか、もっとこう、別の書き方があるはずだぜ、みたいな。スポーツ万歳にもならなくてスポーツを人間の「寓話」にもしないような文体。シニカルさを振りかざさない文体。まぁスポーツじゃなくても、どの業界のどんなもんでもそうなんだろうけど。それを「すごい」って言わずに済む、それに「(無)意味」を見ずに済む、そこに「わびさび」を演出しないでいられるような書き方。