家系ラーメン

 

大学生のとき、初めて家系ラーメン食って、マジでこんなうまいモノが、って感じでけっこうビビった。高校の頃までは別にラーメンってあんまピンと来てなくて、そんなテンション上がる食い物って感じでもなくて、だから家系ラーメンは割とカルチャーショックだった。

 

「武道家」って店によく行ってた。大学のすぐそばに本店があって、けどそこはいつも行列みたいな感じで、基本中野にある2号店で食ってた。まぁ住んでたアパートが中野だったし、夜中にふらっと食いにいくのがめっちゃ好きだった。森見登美彦の『四畳半神話大系』にも夜中、屋台のラーメン食いにいくってシーンあって、ちょっとそれ気取りっつーか、コスプレ、ごっこ遊びみたいな。

 

あともう1軒、中野駅のすぐそばに「鶏豚大将」って店もあって、家系ラーメンだけど豚骨じゃなくて鶏、ってヤツで、あれもやたらうまかったんだけど、いつの間にか閉店してた。大学出て田舎帰って、そんでもっかい上京して中野に住み始めたけど食えなくてちくしょう、みたいな。神奈川に店あるらしいけど、結局食えなくて、食えないまままた田舎にUターン、みたいな。食いてぇな。

 

なんつーか、家系ラーメン食ってからやっと他のラーメン、カップ麺とか町の普通の中華そば、みたいなもんのうまさも分かるようになったっつーか、パッとこう、なんとなくラーメンの「見取り図」が分かったっつーか。――大学の授業で、確かソシュールの解説だったと思うけど、その先生が雑談で、「自分の子どもがなかなか言葉を話すようにならなくて、あれ、大丈夫なのかってちょっと焦ったけど、あるとき急にべらべら喋るようになって、それでソシュールの言ってることが腑に落ちた」的なこと言ってて、要は幼児の言語の習得ってのはひとつずつ言葉を覚えてひとつずつ地道に言葉を喋れるようになってく、ってもんじゃなくて、一定の蓄積のあとで言語の全体図、「体系」を一気に悟ってそっから一気に自在に喋れるようになるんだ、的な話で、要は言語なら言語、ラーメンならラーメンの、そこの「構造」が見通せないと個別のモノそれぞれの「意味」は分からない、個別のモノどうしの距離感とか関係が分からないから完璧意味不明、的な感じになるわ、みたいな。まぁその「体系」を悟るためには、最初にまず個別具体のそれぞれのモノ、単語なりそれぞれの店のラーメンなりを意味が分からないまま「収集」、「蓄積」する必要があるわけで、……いやまぁ、要するに自分にとっては家系ラーメンってモノが、ラーメンの体系を悟るための王手、決め手になる最後のピース、一撃だったんだな、みたいな。

 

cruel.org

新しいことば、新しいしゃべり方が生まれるとき、それはいままでの言語への継ぎ足しみたいな形で生じるわけじゃないのよ。ことばが一つ加わるとさ、言語の構造そのものが大きくずれることもある。さらに、そのずれ方だって、なんでもいいわけじゃなくて、それなりの規則性があるってのもわかってきてんの。

 

山形浩生が上のコラムで言ってることもちょっと似てるっぽい。いや違う気もするけど、話題的には多分そんな遠くない。要は既存のシマに何か別のモノがひとつ入り込むとそれだけでその中の関係性一変、みたいな。でもその一変の仕方にも傾向があって、……サークルクラッシャーみたいな話かな。それだと一気に話がしょぼい気して、お、おう、みたいな。ってか逆に、世の中のあらゆる変化全部サークルクラッシュの比喩で説明できる感じして、何にでも使える万能な道具で、まぁ何にでも使えるってことは何も説明したことにならないガラクタってことなんだけど、まぁ、要は家系ラーメン思い出してノスタルジア、すごい感傷的になってるわ、みたいな。今。武道家も食いたいし四畳半神話大系もアニメ観直したいし…