久々に地元のジュンク堂行った。目当ては詩集とかだったんだけど、その類のコーナーは100%壊滅してた。何年か前は多少は置いてあったのに! いや日本の近現代詩とかは割と売ってんだけど、外国の翻訳の詩が全然ない。っつーかジュンク堂とかでかい本屋に限らず古本屋とかセレクト書店みたいなトコでも外国の詩ってほとんど置いてない。あー、みたいな。

 

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いや別にそんなレア物とか欲しがってるわけじゃなくて、『海外詩文庫』とか『世界現代詩文庫』とかで全然良くて、そういうのが何冊か置いてて、ぱらぱら捲って良さげなのひとつかふたつ買う、ってので全然いいんだけど、それすら無理って感じで、あー、みたいな。

 

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海外の詩、どっかの途上国の詩とかでっかい国の少数民族の詩、みたいなのが結構好きで、要はそれは、現代の日本人、とは違う悩みをベースに、それが詩って形で抽象化して書かれてるってのがなんか良くて、つまり、なんつーか、日本の詩を読んでもベースになってる「不満」っつーか「実存」が基本作者も読者もどいつもこいつも同じで共有されてて、それを語彙とか文体でうまいコトやって抽象化しても結局もう条件反射としてその「文脈」が分かるから、まぁ、なんつーかそれは、感覚としてエッセイとか読んでるのと同じで、個人的にそれは、詩に対して求めてるもんじゃなくて、だから外国のどっかの遊牧民のあんま日本人には馴染みのない悩み、実存、みたいなもんがさらに詩としてグニャッと変形させられてると、おーよく分かんねぇけどイイじゃん、みたいな。分からないからこそ読んでられるっつーか、要は「繊細な感性」の押し売りに気付かずに読んでられる、みたいな。もちろん自分がその遊牧民だったら、そこでの「文脈」を共有しちゃってるから、それはそれでその詩の「繊細な感性」のドヤ顔感にイラついてんだろうけど。で、逆に日本の詩とかは「こいつらの悩みとかよく分かんねぇしそもそもどうでもいいからバシバシ他人事で読めるわ~」とか言っていろいろ買ったりしてんだろうけど。要は遠いモノを遠いモノとして読む、読み捨てる快楽っつーか、けどそれは、割とマジで、共感とか感情移入の起動しない、他人事を他人事として読み捨てることでしか救われない瞬間ってのも、まぁ生きてる中で時々はあるよな、みたいな。それはそれで文学とかアートとかエンタメ、まぁ呼び方は何でもいいけど、そういうモノのひとつの役割ではある、って気がする。まぁ狙ってそういうモノを作れるヤツなんてどこにもいないかもしれないけど。こっちで各々勝手に、自分にとっての「それ」を探すしかないのかもしれないけど。