雑誌

 

何年か前中古の音楽雑誌買って、あれどこやったっけとか思ったら目の前にあった。テレビの高さ調節の台にしてた。『snoozer』。

 

多分買ったきり全然読んでなくて、中開けたら文字ビッシリでお、おう、みたいな。分厚いな。確かに家電の下に敷くにはピッタリだわ、みたいな。

 

今の50歳とか60歳ぐらいのヒトたち見て普通にすげぇなって思うのは、なんか若い頃に雑誌いっぱい読んでたっぽいってトコだ。ほんとにあれこれ読んでたんだなって感じでいろんなジャンルの雑誌の固有名あれこれボンボン出てきて、マジかよ、みたいな。それが編集者とか大学の研究者とか、そういうふうな本ってモノがそもそも好きだろってヒトとかは分かるけど、お笑い芸人とかタレントとか、なんつーかまぁそういう「素人」でもいろいろ雑誌談義が当たり前にできてたりするのは脱帽、みたいな。自分は昔も今もほとんど雑誌って読んでなくて、まぁガキの頃からインターネットあったからそれが雑誌のポジション、ネットあったらわざわざ雑誌なんて読まねぇよ、ってのは理屈としてはそうなんだけど、でもやっぱちょっとコンプレックスなんだよな。どうもこう、あー、みたいな。ってか今『snoozer』とか本棚の奥の『WIRED』ぱらぱら捲ってて思うけど、雑誌読むのもひとつの技術だよなこれ。漫画とか普通の単行本読むのとはまた別の。読み方分かんねぇなこれ。

 

 

最近やったゲーム(3)

 

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『Ape Out』ってゲームやってた。ゴリラが人間殺して逃げてくゲーム。エンディングの曲カッコいい。


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そんでたまたまこの本読んでた。ホモサピエンスがどうやってここまで来たか、的な話。この手の本は年に1回ぐらい読んで、けど読んだそばから内容忘れて結局昔からいつまで経っても知識が定着しなくてアレな感じで、まぁだから今回も新鮮っちゃ新鮮に読んだ。

 

要はネアンデルタール人は俺らホモサピエンスよりアタマ悪かった、つまり普通の意味でのアタマの良さ、要は物事の抽象化(「平和」って概念を考えるとか)は無理だったらしくて、でもネアンデルタール人ホモサピエンスより脳は大きかったらしくて、つまり俺らサピエンスとは違う意味でのアタマの良さ、考古学的な証拠としては残らないアタマの良さ、まぁ要は俺らサピエンスとは全然違うアタマの使い方、思いもよらないこと考えたりとかしてたかも、みたいな感じで、へぇ、みたいな。

 

ってか滅んだネアンデルタール人とかに限らず、ホモサピエンスも今より昔の方が脳は大きかったらしい。なんで脳が小さくなったかはよく分からんけど、著者の推測として、

文字が発明されたおかげで、脳の外に情報を出すことができるようになり、脳の中に記憶しなければならない量が減ったのだろうか。数学のような論理が発達して、少ないステップで答えにたどり着けるようになり、脳の中の思考が節約できたのだろうか。それとも、昔の人類がしていた別のタイプの思考を、私たちは失ってしまい、そのぶん脳が小さくなったのだろうか。

 

ただ想像することしかできないが、今の私たちが考えていないことを、昔の人類は考えていたのかもしれない。たまたまそれが、生きることや子孫を増やすことに関係なかったので、進化の過程で、そういう思考は失われてしまったのかもしれない。

 

そういや昔、東浩紀トークショーで言ってて、それは「もしネアンデルタール人とか、ホモサピエンス以外の人類が今も生きてたら、そいつらは多分サピエンスとは異なる思考回路、行動原理を持ってたと思うけど、でもサピエンスの男女よりサピエンスとネアンデルタールの男どうし、女どうしの方が「分かり合える」こととか結構あったりしたかも」的な話で、なんかそれはイイ話だな、って思った、ってのを思い出した。つまり今の世界に「ヒト」が1種類しかいないってことが生物としての男と女の違いを分かりにくくしてる、要は男も女も同じサピエンス、世界でただひとつの「ヒト」ってことで話はおしまい、めでたしめでたしみたくなってて、要するにネアンデルタール人とかがいたら俺らも「唯一の人類」って特権化、自己満足にハマらずに済んで、そこで思考が打ち止めにならずに、もうちょいちゃんと「性差」ってモノについて考えたりできてたかもな、みたいな。なんつーか、結局「同じ人間、ただ1種類の人間」って結論ありき、その枠の中でしか物理的にもジェンダー的にも男と女の違いを考えれてないって気は確かにしてて、まぁ、それはちょっと窮屈なのかもな、みたいな。何かが違う、けど答えだけが最初から決まってる、「同じ人間」って決まり文句だけが。同じ言葉だけがループする。死ぬほど。

 

 

外出

 

イカスミパスタ食ってきた。初めて食ったけどうまかったな。これはイイわ。

 

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ついでに本屋寄った。「まわりみち文庫」って本屋で、8畳1間みたいなほんと狭いトコ、飲み屋ばっかに囲まれた四面楚歌みたいな環境でやってて、でも雰囲気イイ感じで好きなんだよな。周り居酒屋だのスナックだの風俗ってことは、要は昼は静かってことで、なんつーかぼーっと本棚眺めてられて落ち着くわ、みたいな。鬱陶しいポップとかもないから目に優しいぜ、みたいな。

 

中古の安い新書とか文庫本とかも置いてるから金なくても結構買える。貧乏人にも優しい。まぁ本なんか読んでるヤツに金持ちってほとんどいないと思うけど…。

 

 

音楽

 

3年ぐらい前に音楽のサブスク、AppleからYouTubeに乗り換えた。当然保存してた曲とかは引き継げなくて、まぁゼロから新しく聴いてこう、掘ってこう、とか思って、でも少し経つとやっぱ前に聴いてたモノとかまた聴きたくなって、けど曲とかミュージシャンの名前が思い出せなくて検索できない、たどり着けない、みたくなった。割とすぐそうなった。

 

まぁそのうち思い出すだろ、とか思ってた自分がアホで、いつまで経っても思い出せないからまたApple Musicに申し込んだ。当時の自分の保存リスト見るためだけに。1180円。

 

けど保存したミュージシャンとか全部消し飛んでた。え、サブスク1回辞めたらそうなんの!? みたいな。アカウント自体はそのままなのに!辞める前に自分で変な操作とかしたんかな…。

 

で、かろうじて「リプレイ:年別トップソング」ってのが残ってて、要するにサブスク登録してた頃の、2019年なら2019年の1年間の自分の再生回数トップ100曲、みたいなプレイリストだけがどうにか「履歴」としてあって、あー1180円丸損しなくて済んだわ、みたいな。どの年も100曲中80曲THE PINBALLS、みたいな感じだったけど、まぁ一応いくつかは拾えた、思い出したくても思い出せなかった曲。

 

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これの『無重力少年』って曲が好きだった。

 

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この曲も好きで、これが思い出したくても思い出せないヤツNo.1だった。

 

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このバンドもこの2曲が好きだった。

 

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これも好きだった。曲名は憶えてたんだけど「Lay」だと全然検索に引っかかんないだよな…。当時はいろいろブルース掘ってみようとか思ってて、で、これはあんまブルースっぽくなくて逆に好きになった。バーンサイドとかもなんか他のラッパーみたいなヤツとコラボしてる曲とかの方が好きだな。

https://www.amazon.co.jp/Bothered-Mind-R-L-Burnside/dp/B0002M1X34

 

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これは思い出せないっつーかまるっきり忘れてたけど好きだった。大原ゆい子ってヒトで、当時ドハマりしてた『からかい上手の高木さん』の主題歌やってたヒトで、それで知った。山本崇一朗、高木さんとかもイイけど短編集も好きだったな。

恋文-山本崇一朗短編集- (少年サンデーコミックス)

ロマンチック-山本崇一朗(裏)短編集- (ゲッサン少年サンデーコミックス)

 

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ところでこのブログ、更新してくんねぇかなぁ…。新しいのが読みたいぜ。

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最近読んだ本(2)

 

10年ぶりに『ドグラ・マグラ』読んだ。どうせまた途中で投げ出すと思ったけど今回は意外と最後まで読めた。普通に読みやすかった。要は親とか先祖の体験が記憶として子孫に埋め込まれて伝わり続けてく、みたいな話で、そんなふうなズラッと無限の「縦軸」(時間)の連鎖と、記憶喪失の主人公(語り手)が自分とうりふたつのヤツを見ながら「俺はあいつなのか?」とか延々悩んでる、そういう無限の「横軸」(現在)の反復が交差してごちゃっと絡んでメタフィクション、みたいな話。なんか角川文庫版とかの無駄にサブカルな表紙で損してる気がする。この作品もそうだし、そもそも夢野久作そのものが。別にそういう作家でもねぇだろ、みたいな。

 

ついでにちまちま『猟奇歌』ってのも読んでる。

 

五十銭もらって

ひとつお辞儀をする

盗めば

お辞儀せずともいいのに

 

毒薬と花束と

美人の死骸を積んだ

フルスピードの探偵小説

 

こんな感じで死ぬとか殺すとかナイフとか銃とかその手の中2ポエムがだーっと並んでて、でもそれがなんかイイ感じにのどかで、ぼーっと読んでると結構気持ちいい。イイ意味で無意味っつーか、何も喋ってない、何も読んだことになってない、みたいな。エンタメってこういうモノのことを言うのかもな。いちいち感動とかさせられなくて済む、こういうモノを。

 

 

最近やったゲーム2

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『ホットラインマイアミ』やった。1と2。死んで0.1秒で生き返ってリトライしてクリアしてくゲーム。1と2両方やって、20時間ぐらいで全クリして、誇張じゃなく3000回ぐらい死んだと思う。面白かった。

 

何年か前、たまたまウィキペディアでこのゲームの記事見て、そのあらすじがめっちゃ好きな感じだった。特にラスト、エンディングの紹介が。

 

(…)最初は嘲りの笑みを浮かべていた二人だが、Bikerが上階のパソコンのパスワードを解明したことを教えられると、笑みを消してことの真相を話し始める。彼等は『50の祝福』を名乗る国粋主義の集団で、ソ連との摩擦が強まっていた冷戦期にアメリカ社会へ潜り込んできたロシアンマフィアを排除するため、発行しているニュースレターの愛読者達にマスクと指令を送り、人殺しをするように脅迫していたと語る。彼等は更に、この計画が既に反米的な勢力の排除に一定の成果をあげており、自分達のバックには強大な権力者が付いていることをほのめかす。しかし、強要される殺戮にうんざりしていたBikerはそうした「真相」を一蹴し、彼等を殺害して立ち去る。クレジットロールが流れる。

 

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上が「1」のエンディングで、基本「1」は序盤から何が何だかよく分からんまま主人公が命令されてヒトを殺しまくるって感じで、それが最後ようやくこんなふうに「右翼の秘密結社の陰謀でした」ってふうにタネ明かしがされて、そんで動画のヘルメット男(こいつは終盤にちょっとだけ使える裏主人公)が、「あぁそうっすか」って感じでその画策してた黒幕を殺して終了、みたいな。

 

要するに「でかい右翼の陰謀」みたいな、いかにもメタルギアとかあの辺の大げさなSF、ディストピアものみたいなこれ見よがしの「真相」をそれこそウィキの表現通り「一蹴」してるってのがマジでイイと思った。っつーか物語の「真相」なんてこんなもんしかヒトは思いつけない、その陳腐さにウンザリしてるって感じを描いてるラストだってのが感動的だった。表主人公は最後までよく分らんままヒトを殺しまくって、そんで裏主人公が探偵役になってその「真相」を暴く、でもその真相にはくその価値すらありませんでした、みたいな徒労感。どうでもいいわ、みたいな。そこを描いてるってのが、なんつーか表現としてすげぇ倫理的、みたいな。

 

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なんだけど、その「倫理」が「2」だとちょっと薄まったかなって感じ。要するに「2」は「1」の謎だったりあいまいだったりした部分を後日談とか前日譚としての群像劇で補完するって感じの内容になってて、それはそれで話としては面白いんだけど、でもそれは結局、「1」でくそをぶっかけて終わりにしたはずの「右翼の陰謀」って紋切型の物語起動装置が再稼働することになってて、うーん、みたいな。

 

付け足すと、上の「1」のエンディング動画、あれは最後に黒幕の2人を殺さないまま立ち去ることもできるようにはなってて、そんで「2」の後日談でその2人が普通に生きて登場してるから、要は「正史」だとヘルメット男は2人を殺さなかったってことになってて、つまりもうそれが象徴的だけど、要するに「2」は「1」を割と強引に「作風」を方向転換させたモノっちゃモノだよな、みたいな。あそこであの2人を殺すのが「真相」どうこうの陳腐な物語への決別、幕引きの証なんだから、あぁいやでも、あえて殺さないまま立ち去れるって選択肢が用意されてたのもそれはそれで「続き」がある、続編作りますよって事前案内でもあって、まぁなんだかんだ、作者的には「1」で殺して終わりってのが倫理上はベストだって分かってても、まぁそれはそれとして話の続き作りたいよね、みたいな欲望もあって、まぁそれはそれで、別に責められることでもないよな、って気もする。鮮やかに終わりゃイイってもんでもねぇだろ、みたいな。現実も同じで、普通に考えて誰も、どんなことも終わりなんてなくて、俺たちはキッチリ正しくは終われない、終わらせることなんてできない、間違ったまま延々ウシのよだれみたいに続いてく、何もかも、みたいな。くだらない「真相」を手放せないままだらだら喋り続けてく、いやぁだるいっすね、だるいけどやめらんないっすね、まぁそんなもんっすよね全部、みたいな、そういうのを表現してんのが「2」なのかもな。分かんねぇけど。

 

 

散歩

 

あーって感じでかったるくなって仕事早退した。まぁ1時間半とかかけて通勤して3時間かそこら働いてまた1時間半かけて帰ってくるってのも間抜けな気するけど。なにやってんだ? みたいな。

 

そんでちょっと寄り道した。家から5分、ぐらいの場所、丘の上、昔通ってた小学校に行った。10年ぐらい前に廃校になった校舎。

思いっ切り感傷にふけろうと思ったけど寒くてそれどころじゃなかった。わざわざ坂道上ってきたのはいいけど割と30秒ぐらいで飽きて、腹も減ったからすぐ帰った。帰ってラーメン食った。

学校のすぐそば、神社に寄った。なんとなくあれ思い出した、『ひぐらしのなく頃に』。オヤシロさまがどうとか、みたいな。高校に上がる直前の春休みにすげーハマってぶっ通しでやりまくってて、面白かったけどノベルゲームって死ぬほど時間かかるなこれ、とか思って、そういう意味じゃそれ以来文字を読むゲームにちょびっと苦手意識っつーか、なんか文字を、話を死ぬほど長い時間強制的に能動的に読まさせられてるっつーか、そんなこんなで少なくとも個人的には、ゲームってモノがインタラクティブだとかプレイヤーの主体性がどうこうって感覚には全然ならないんだよな。『428』やったときとかもそう思ったけど、なんか話読み進めるためにいちいちちまちま操作しなきゃならないってのが、強制的にこっちも「ノラセられてる」感があって、おいちょっと待てよ、みたいな。いいからお前の方で勝手に喋っとけよ、こっちは聞くのに集中するからよ、みたいな。そこはお互い分業制でいこうぜ、みたいな。

 

『ドキドキ文芸部』とかにしても、なんかプレイヤーに「能動」を強いるゲームって逆に「読者」ってモノを舐めてんじゃねぇのか、みたいな。「読者」にあれこれゲーム上の操作をやらせて物語に干渉させることで「主体性」を施してやるよ的な上から目線っつーか、結局それは「クリエイター」>「読者」って概念の再強化、「読む」だけの受動的なヤツは非創造的、非生産的なカスってクリシェを、そのマウンティングを繰り返してるだけなんじゃねぇの? どうもこう、そういう意味でゲームクリエイターの「企み」とかって結構鼻につくことなきにしもあらず、みたいな。そもそも「主体」ってお題目を信じ過ぎてないっすかあんたら、みたいな。