眠り

 

最近よく寝てる。っつーか春に就職してから睡眠時間が延びた。疲労がどうこうってより単純に現実逃避としてとりあえず寝てる、みたいな。別に普段だって何も考えてるわけじゃないけど、それでも何も考えたくねぇ、みたいな。

 

ショートスリーパーのヒトとかって、そんなふうに睡眠を「逃避」として使えるんかな? 要は明け方5時に寝て朝6時に起きて、それで身体的、物理的には「よく寝た」ってことになっても、こう、昨日から「隔たった」って感覚になれるもんなのか? いや実際問題俺ら普通に幾らでも寝たい、寝れるって一般人だってそんな都合よく眠りが昨日の「リセット」になるわけじゃないけど、ただ概念としては6時間より12時間寝た方が昨日を引きずらずに済む、心機一転で行けるぜ、的な皮算用は立てれる、とりあえずそういう発想にはなれるって感じで、つまり要は、ショートスリーパーの睡眠の体感時間、っつーか時間全般の感覚ってどういう感じなんだろうな、みたいな。

 

1時間の眠りが一般人の8時間睡眠に匹敵するショートスリーパー、ってのがいるとして、そいつにとって1時間の眠りはちゃんと8時間分の現実逃避として成立してんのか? 8時間何も考えずに済んだ、この世界から隔たってられた、って気分になれるもんなのか? そうだとして、じゃあ逆に、そいつにとって1時間の映画とかは一般人にとっての8時間分のシロモノ、ってことになったり、なんてこともあったりするのか? いやなんつーか、別に俺だけじゃないと思うけど、時間の物差しが睡眠、ってヤツは結構いると思うけど、そういう発想で見ると、1時間寝りゃ大丈夫ってヤツにとっての時間、起きてる時間、働かなきゃならない8時間、ってのはどういう長さとして日々纏わりついてんだろう、みたいな。

 

あるいは、別にショートスリーパーだろうが何だろうがやっぱ1時間は1時間であって、1時間の眠りはそいつにとっても額面通りの1時間でしかなかったとして、それは単に眠くないってだけの話だとして、ならそのとき、そいつがこの世界から「隔たりたい」って思ったとき、そいつはどうすりゃいいんだ? 何も見たくない、何も考えたくなくなったそいつはどこに逃げればいいんだ? 本当は何も考えてない、考えたことにならないってことを考えたくなくなったそいつは、どうやって今日じゃない明日って妄想を夢に見ればいいんだ? この今日を昨日にするって、明日は明日の風が、って妄想を。

 

 

アメリカ

 

「19世紀末にアメリカ旅行をしたイギリス知識人の話が伝わっている。その知識人は、汽車の窓から目にした町の名前、トマスビル、リチャーズビル、ハリーズビル、メアリーズビル、等々、の単調さと想像力のなさにぞっとしたという。彼は自分が目にしているものの意味、つまり、歴史上初めて大衆、ただのトムやディックやハリーが町を建設し、自分や妻の名をとって命名したことに、勘づきもしなかったのである」

 

「ある駅で乗り込んだひとりのアイルランド系老婦人がその知識人の隣に座り、彼が口の中でブツブツ呟いているのを耳にして、「この国は神に祝福された国ですよ。神が貧乏人のためにこさえたんだと思います」と言ったという」

 

――『初めのこと今のこと』(エリック・ホッファー

 

 

伊藤潤二

 

伊藤潤二の漫画、ホラー漫画だけど笑えるのがイイ。というかホラー漫画ってモノが「お笑い種」ってコトを暴露しちゃってんのがイイ。ヒトをビビらせよう、怖がらせようって欲望のその浅ましさっつーか、そういう企み、「作為」の間抜けさに伊藤潤二はすげぇ自覚的で、だから伊藤潤二の作品はもう全部がメタホラー、メタフィクションで、要はどう作ろうとホラー作品なんてモノは全部が文化祭のチープなお化け屋敷でしかねぇんだ、みたいな。っつーかホラーに限らずあらゆるジャンル、何かを描こう、「読者」に何かを思わせよう、影響を与えようとする限りフィクションだろうがノンフィクションだろうがどうあがいても全部噓くせぇわ、みたいな。うぜぇよ、みたいな。伊藤潤二の漫画はもう要は全部それを言い続けてるだけのことで、だからどれも全部同じっちゃ同じで、っつーか「違う」ってふうには誰もなれねぇよ、みたいな。

 

だから伊藤潤二読んでるともうヒトが作ったモノ全部がうんざりって気分になって、じゃあその辺散歩してぼーっと景色でも見とくか、みたくなって、でもそれはそれで柄谷行人日本近代文学の起源』的な、要は何気ない風景を見て何かを思う、思おうとするって振る舞い自体が後天的なモノ、「制度」の手のひらの上でしかねぇんだ、みたいな、っつーか要するに景色なんか見てそれがなんだってんだ? みたいな。何回見たって同じ感傷、陳腐な「物思い」をループしてるだけだろ、全然「人間」から、「作為」からエスケープできてねぇよ、みたいな。ほんと疲れるわ、これぐらいにしようぜ、って感じの。じゃあもう伊藤潤二なんかそもそも読まなきゃ良かったな、でも読まなきゃ読まないでアタマの中のうんざり感、「作りモノ」への倦怠感をうまく掴み切れない、言葉にできないままで、いや、言葉にしようがしまいがどっちみちどうにもなんねぇんだから同じだよな。どっちみち疲れてるわ、どいつもこいつも、どこの誰だろうと。

 

 

東浩紀

 

昔から東浩紀のファンで、で、多分「生殖」ってモノをうまく使ってるトコに惹かれてんだと思う。そういうファンは他にも結構いると思うけど。

 

セカイ系とかの「キミと僕だけ」みたいな話があって、そんでそこに向かって「他者」がいない的な批判があって、で、東浩紀が言ってたのは、要は「「キミと僕」のふたりきりでも、まぁ普通に考えてそいつらはそのうちヤルだろうしヤッたら女の娘は孕むだろうし、だから結局ガキがデキるってことで閉じた世界は自壊するわけだから別にイイじゃん」ってことだったと思う。ヤレばデキるっつー身も蓋もない現実で「他者」がいる、いないみたいな空中戦を追いやる、うぜぇから話すり替えとけ、みたいな。そんな感じで、セックスっつーか「生殖」に目をつけてる、それこそ人間を猿として描写できる、子供を「異物」として見れる、みたいな。

 

なんとなく東浩紀できちゃった婚に好意的、いや好意っつーか現実そんなもんっすよねってのが文章の前提にあるって感じがする。別にそういう直接の言及があるわけじゃないけど。田舎のヤンキーあたりが自分らのつるんでるネットワークの中で付き合ったり別れたりして、本当は別に本命がいるけどそいつは別のヤツと付き合ってるからとりあえず今は2番手の女とヤッとく、とかシてたらそいつが妊娠した、あーじゃあまぁ、こいつで妥協して結婚するかー、みたいな、まぁ俺の人生こんなもんっすよね、まぁ別にこいつのコトもそこそこ好きだしそこそこ楽しく暮らせるだろ、みたいな。東浩紀自体の経歴にはそういう地方のマイルドヤンキーみたいなアレは微塵もないのに、インテリのくせにそういう嗅覚あるのがすげぇなって思う。ガキがデキるって「物理」があれこれの理念に先行する唯物論。なんつーか、東浩紀の話って不思議と妙な救いがある感じがするんだよな。分かんねぇけど。

 

 

工場のドア

 

お前は二度と帰ってこないね。

お前がドアに入っていくのを見送って、おれはさよならと言うよ。

お前を呼び待ち構えている、望みのない開いたドア、

そこからお前を連れこむドア――1日何セントなんだ?

ねむたい眼と指に対して、いったい何セントになるんだ?

 

おれはさよならを言うよ、あれがお前の手首に穴をあけるのを知っているから、

毎日毎日、暗闇の中、静寂の中で、

それでお前の身体じゅうの血は一滴ずつ流れ出る、

それでお前は若者になる前にもう老いてしまうんだ。

お前は二度と帰ってこない。

  ――「工場のドア」(『シカゴ詩集』カール・サンドバーグ

 

 

文学

 

江藤淳とか梅原猛とか読んでると、それ自体の話は俺のアタマじゃ難しくてよく分かんねぇなってなるけど、それはそれとして和歌だの俳句だの説話集だの、そういう古い文学をいっぱい読んでて普通に詳しくて当たり前にあれこれ引き合いに出してくるのは単純にすげぇな、カッコいいよなって憧れる。まぁなんつーか、普通に教養あるよな、みたいな。

 

大学のとき週1で古今集とか読む自主ゼミ? 的なトコに行ってて、2年間行ったけど結局全然それ系のモノに興味持つってふうにはならなかった(お茶の水から来てる綺麗な先輩がいて、俺はそのヒト目当てで下心でだらだら顔出してた)。そこのメンバーは自分以外ほとんど将来古典文学の研究者とか目指してるヒトたちで、普通に疑問だったのは、なんでこんな和歌とかが面白い、メシの種にしたいってレベルでのめり込んでんだろう、何がそんなにあんたらを惹きつけてんだ、みたいな、それは普通にちょっと悔しかったっつーか、まぁでもそのうち少しは分かるようになんのかな、何年か経っておっさんとかになれば興味も沸くのかな、みたいな、んなふうにも思ったりしてて、けど10年経った今でも結局そうはなってなくて、あー、みたいな。申し訳程度の劣等感引きずって、そんで昔の批評家がさらっと和歌とか話に出すの読んで、「おーすげー」みたいに思って、まぁ以上、みたいな。まぁ下手に色気出さずにこのまま一生行った方がイイっちゃイイのかもな。10年後に「論語が座右の書です」とか言い出す感じになってるよりはましなのかもな。

 

 

視力と亡霊

 

目が悪くて普段あんまモノがよく見えてない。何となく鬱陶しくて仕事以外のときは基本裸眼で、だからいろいろ、あれもこれもあんま目にハッキリ映ってない。

 

だから町とか駅とかでよくヒトを見間違う。具体的には制服着た高校生を自分の昔の同級生とかと見間違う、そんでちょっとビビる。ここでこいつに会うとは、みたいな。そんで一拍遅れてアタマが追いつく、いやいや、これはあいつじゃない、もうイイ歳だから、制服着てるわけねーから、みたいな。

 

亡霊っちゃ亡霊って感じ。昔の知り合いが昔の姿で町を漂ってる、みたいな。まぁだいたいのヤツらはとっくに地元出てもうこの辺にはいないんだけど。目とアタマの悪い俺が勝手に亡霊を見てる、とっくにイイ歳こいた昔の知り合いの昔の姿を、現役のティーンエイジャーに勝手にダブらせて勝手にまごついたり懐かしがったりしてるってだけだけど。まぁ要は、目とアタマが悪いとあんまヒトの区別とかつかない、今と昔の区別がつかないって、ただそれだけかもな。それはそれで悪くないって気もする。そんなひとりひとり顔とかカタチが違ってたらいちいち面倒だろ、そんなふうに色とりどりだったら、そんな景色はしんどいだろ、このアタマじゃ処理できないだろ、普通に考えて。